「毎年海外に水彩画を描く旅に出ることにしている…」このブログのどこかで記した一文である。だがご存じのとおり、コロナ禍でその信条は3年ほど実行できなかった。コロナが5類に移行したからには、もう遠慮することはない。無念を晴らすべく、世界一周のスケッチ旅に出かけることにした。
そこで、この際絵の好きな人はもちろん、世界中の建物や町、人々の生きる様を感じるのが好きな人のために、世界一周ノウハウ集を記録しておこうと考えた。
この記事はなるべく現在進行形で書こうと思っている。細かな失敗や成功、気持ちの良い旅をするためのちょっとしたコツを忘れないうちに記録し、伝えようと思うからである。
もしあなたが読んでいる記事が旅の途中のものであったなら、その続きがまだあるということだ。時間をおいてまた見に来て欲しい。新たな情報を皆さんに提供できるだろう。
※今現在は旅行から帰国している。帰国後の役立ち情報とコメントも追記した。
世界一周、何でゆく?
実は私の「世界一周スケッチ旅」は昨日今日思いついたわけではない。「水彩画家」と名刺に書いた以上、それなりに実作を増やさねばならない。そのためには、一気に世界一周の旅に出て、毎日水彩画を描けば手っ取り早いと思ったのは随分前だ。
では何で行くべきか?
色々考えた。有名な豪華クルーズ船「飛鳥Ⅱ」なら最高だ。だがその費用は桁外れで、私はもちろん、世の多くの人が利用できる値段ではない。仮にその旅のノウハウを書いたところで読む人はほとんどいないだろう。
では最も安い方法は…もちろんヒッチハイクだ。だが今度は桁外れの時間と体力、度胸が必要だ。もう若くない私には決定的に無理であろう。
もちろん他にも様々な手段がある。だが私が最後まで悩んだ方法は二つ。世界一周航空機フリーチケットを使うか、ピースボートに乗るかである。両者は期間も費用もトータルではそれほど変わらないと私なりに計算した。
私の妻は圧倒的に航空機派である。何故なら、飛行場のあるところであれば、世界中どこでも自分で自由に計画して、ビジネスクラスでの飛行機旅が楽しめるからだ。
ただし、航空機のグループとチケット使用期間が限定されること、地球一周は一方向のみで後戻りはできないことは覚えておこう。
ただこの旅の最大の欠点は、地球を一周する間ずっと荷物を持って移動しなければならないことだ。
水彩画を描くことが目的の私にとって、春、夏、秋、冬全ての風景を描きたい。すると衣類だけでも相当の量になり、スケッチブックや絵の具、筆、水入れ、カメラなど普段のスケッチ道具一式も旅先に携行しなければならない。
その点、船旅(ピースボート)ならば、荷物は宅急便で船室に送っておき、港に着いたら、季節にふさわしい服装で、スケッチ道具だけを持って出れば良い。
結局この「荷物移動の容易さ」が今回船旅でゆくことにした最大の要因である。
さてあなたは何を選ぶだろうか?十分に検討してほしい。考える時間とその後の楽しみは比例するはずだ。
あなたの旅はすでに始まっている。
ピースボートとは
年に何回か比較的安価で世界一周の旅を企画している。コース、期間、値段など詳しくはホームページ(https://www.pbcruise.jp/)で調べて欲しい。若い人は3~4人部屋、2段ベッド、窓無しという条件で破格の値段で乗り込んでいるようだ。
私が選んだのは、105日間の旅で以下のコースで地球を一周するものである。日本 ~ハワイ ~中米 ~パナマ運河 ~ジャマイカ ~アメリカ ~カナダ ~アイスランドからイギリス ~フランス ~ポルトガル ~スペイン ~イタリア ~ギリシャ ~トルコ ~エジプト ~スエズ運河 ~スリランカ ~マレーシア ~シンガポール ~香港 ~日本。
世界中の風景を水彩で描くという目標にとりあえずは不足はないと言っておこう。
旅費は先のピスボートのホームページに載っているが、実はお得に行ける方法がある。いやあったというべきか。
まず安く行く大原則は「早割」を使うことだ。私が申し込んだ時は確か3割引き程度だったと思う。だが問題はその後である。
この時選んだ船室は「絵を描くのが目的」と割り切って、バルコニー無し、かつ窓はあるが「救命ボート前で視界が遮られます」とのコメント付きのローコスト部屋だった。
そして、コロナにより旅は中止、払い戻しを希望する客が殺到することになる。
「払い戻しは分割で…」とのピースボートのコメントが新聞に載ったのはその直後のことだった。私もピースボートが倒産したら大変だから、すぐキャンセルすべきだと親しい友人から忠告を受けた。
一瞬悩んだものの、コロナが収まればすぐに出かけるという決意は揺るぐことなく、結局延期の手続きだけをした。今思えばこの決断は大正解だった。
2年目も延期。そして3年目も延期。そして実はこの間に二度ピースボートのクルーズ船が変更になった。その度に、客室数は増加して、バルコニー付き船室が増加したのだという。
その間、キャンセルせず、権利だけを保有した者へのプレゼントなのだろうか?私の部屋はいつのまにか、(景観最低)窓付き客室が普通の窓付き船室に、そして最後は最上階のバルコニー付き船室へとアップグレードされていた。
最新のピースボートクルーズの値段を見ると、私が最初に払った金額の倍近い金額が提示されているようだ。
多分に「コロナ」という偶然に左右された結果ではあるが、大切なことは「世界一周」を実行する強い意志を持つことだと思う。
旅の準備
先に触れたように、荷物は事前に宅急便で船室に送っておける。だが実は船室はそれほど広くない、というより相当に狭い。
私が乗ったのは妻と二人のバルコニー付き船室だがベッドと隣室の仕切壁との隙間は65cmしかない。つまり床に物を置くスペースはほとんど無いということになる。それではと、ワードローブの幅を調べるとやはり90cmほどしかない。大量に段ボールを送っても収納するスペースが限られるというわけだ。
その点で、百円均一店で売っている圧縮収納袋は実にありがたい。特に掃除機で内の空気を吸い出すタイプはオーロラ鑑賞用の真冬のダウンもペラペラに薄くなる。
船室で段ボールから取り出し、そのままワードローブの最下部に折り畳んだまま収納している。全く邪魔にならない。
ただし、この圧縮袋は一旦取り出すと、旅先に掃除機がない限り役に立たなくなる。要注意だ。えっ帰りの収納はどうする気かって?大丈夫。私達が帰ってくる時期は真冬なので、ダウンは着て帰れば良い。夏物は手で圧縮するタイプの袋に入れて収納するつもりでいる。
なお、カップルでゆく予定の方は是非相手の意見を拝聴することをお勧めする。私の妻はなんと、やはり百円均一店で売っている「突っ張り棒」を持ち込んでいる。それを洗面台、鏡の前に装着し、化粧小物を吊したり、洗濯物を干したりしている。
その他、気がつけば吸盤フックやらS字フックやらがあちこちの壁面で活躍し気が付けばとても暮らし良い空間になっている。
持ってゆく絵の道具について
この記事に限っては水彩画そのものは主要なテーマではない。だが長期のスケッチ旅となれば、それなりに必要なものも、日帰りの旅とは異なってくる。注意点を列記しておこう。
ペン、鉛筆、絵筆、絵の具、スケッチブックなど日帰りの旅ならば予備はいらない。だが3ヶ月半の旅となれば話は別だ。特に私はこのブログでも何度もお伝えしたように、不注意による失敗が多い。物をなくす、置き忘れるなど日常茶飯事。
だから今回は基本的に愛用の道具は全て同じ物を2つ以上揃えて持ってきている。
特に使用頻度の高い絵の具、サップグリーン、ウィンザーブルー、コバルトターコイズ、クリムソンレーク、ローシェンナなどは、使用中のチューブに加え新品を2本ずつ追加したほどである。時間の限られた海外旅では、自分の愛用の画材は(絶対に)入手できないのだ。
当然スケッチブックも一冊では不安である。今までの海外スケッチ旅ではF6号、SM、F0号を各一冊持って行った。今回は新品のF4ウォーターフォード3冊(300g/㎡)とSMモンバルキャンソン(300g/㎡)1冊を持って行った。
※今回F6サイズでなくF4サイズにしたのは、持ち運びやすく、かつそれなりに紙面が広いからである。この判断は大正解。狭い船室のデスクでも描ける最大のサイズだった。
当然だがいつも使う水入れ、筆、布なども忘れずに持っていこう。
携帯電話と通信の重要性について
いよいよ出航の日が来た。私の自宅は神戸、出航は神戸港だ。近くに公共交通機関の駅もある至便の地だが、(大量の)手荷物を現地まで運べるタクシーを利用することにした。
この時利用したのがタクシーアプリ「GO」。かつてのように、予約の前日に電話して時間と行き先の説明不要、乗ってからの小銭の心配なども一切不要だ。
運転手さんに聞くと、神戸でもはや客の9割がこのアプリによるのだという。コロナ禍の3年の間に著しく進歩したツールとしてはTV会議システムと双璧ではなかろうか?
さて、乗船前のパスポートやクレジットカードの登録を済ませたら、ついに乗船だ。最もその直後は先に送った段ボールを開け、部屋に住めるように整理するのに、忙しくて旅行気分を味わうどころではない。
身の回りを片付け終わった頃アナウンスが入る。船長主催の出航式だという。セレモニーの写真を撮ろうと、ポケットのスマホを探したが…無い!
そういえば、部屋についてから、スマホは一度も操作した覚えがない。妻に私の携帯に電話してもらったが、着信音はどこからも聞こえない。
ひょっとして、さっきのタクシーに置き忘れたか!?
まもなく出航で、タクシーを探し出して、取りに戻る暇もない。
考えて見れば、今後のスケジュール、途中で乗る航空機のチケット、ホテルの予約先、全ての支払いの操作も、そのための資金移動も全てデジタル、つまり携帯電話の中なのだ。
その絶望感に呆然としながら、この旅行に備えて買ったアップルウォッチのiPhoneの位置確認ボタンを無意識に押してみる。
するとどこからか反応音がなる。
「どこ?」妻が素早く反応。ベッド横のナイトテーブルの引き出しだ。湧き上がる期待感と共に中を覗き込む。
「あった…!」
そうだ、部屋を片付ける前に、まずスマホだけ邪魔にならぬところに置いたのだった。
妻からは散々叱られ、ひたすら恐縮するしか無かった私だが、改めて思い知らされた。旅先で命の次に大切なものは「スマホ」である。皆さんもご注意を!
船内の食事
ピースボートのシステムでは最初に支払う旅費に船内での食事代は含まれている。今回の船にはフルコースのダイニングが2店、自分で好きな物を取るビュッフェ形式のレストランが一店ある。
ダイニングは朝と昼はどちらに行っても良いが、夜は人により入店時間に指定がある。私と妻は6階のレストラン19:30から30分以内と定められている。
ダイニングにはドレスコードがあり、Tシャツと短パン、サンダルの人は入れない。
ダイニングというからには当然だと思う。自由な服装でという方はビュッフェに行けばいいのだから。
だが問題は、運用方式だ。
この両者のレストランは、驚いたことに、客ごとにテーブルを希望することはできないのだ。来た順番に大テーブルに詰められ、見も知らぬ客と隣り合わせになる。しかもそのテーブルがいっぱいになるまで、ウェイターは水も持ってこない。
まるで学生時代に通った定食屋のようである。すでに安い料金で引き受けた客にまともなサービスは不要ということだろう。
だから私の個人的評価は最低である。「ピースボートだから」と諦めるしかなさそうである。
それに比べてビュッフェは相当自由度がある。朝は5時から、夜は12時までオープンしている。好きな時に、何度でも食べて良い。だからワインボトルだけ買えば、料理は無料でいつでも宴会ができる。若い人たちにとっては天国のような空間ではなかろうか。
なお、ビュッフェの料理は決められた箱に詰めて船室に持ち帰ることができる。忙しい方(?)はいつでも空いた時間で室で食事ができるというわけだ。
船上でインターネットを繋ぐ
船上ではスマホは電波が届かないので繋がらない。当然インターネットにも繋がらない。
だから普段ラインやFB、電子メールなどでやり取りしている友人達とは船内は通信ができないので、しばらく音信不通ですと伝えておいた。
だがやはり不便なこと極まりない。
まず電子版の新聞が読めない。各種公共料金、税金、社会保険など旅行中でも支払いは済ませなければならない。
大事な仕事関連のメールも入ってくる。たまらず、ピースボート船内の衛星有料Wi-Fiに繋いだ。
「なんだ、ちゃんとサービスがあるじゃないか」と思ってはいけない。
料金はなんと100分で2,200円。しかも速度は遅いので、口座の本人認証などを待っているうちに、あっという間に時間切れになってしまう。なるべく寄港地でネット用事を済ませるように事前に計画しておくべきだろう。
海外でインターネットを繋ぐ
先に述べたように、もはやネット環境無くして海外旅行はできないと言っていい。国内で使っているdocomo、ソフトバンク、auなどの通信は当然海外では使えない。
ならばどうするか。
ヨーロッパ、アメリカの公共的施設内は、ほぼ無料のWi-Fiが使える。だが移動中で、Googleマップを使いたい時などは、やはり自分のネット環境がほしい。
かつては空港で現地用Wi-Fiルーターを1日あたりいくらでレンタルしていた。「イモトのWi-Fi」がその代表だ。
実はピースボートにも寄港地用のポケットWi-Fiルーターを貸出ししているが、こちらも船内無料Wi-Fi同様とんでもなく高額。でとても使用する気になれない。
だがありがたいことに、最近はほとんどのスマホが、SIMフリーになったので、海外用のSIMに差し替えれば、はるかに安く、ルーターのような持ち運びデバイスも不要で安定した通信環境が得られる。
SIMは一般的にはユーロッパ、アジアなど地域ごとに違うカードを挿す。またデータ容量と速度、使用期間など様々な条件で値段が違う。
どれにすべきかを、色々と検討した結果、「世界一周タイプ」15日間、4G、5Gが使える格安のSIMカードをAmazonで12枚購入した。
105日夫婦2人分節約してもこの枚数が必要だった。
最初の寄港地ハワイへ
待ちに待った陸地。だが寄港してからすぐ上陸できるかというとそんなわけではない。特にアメリカは乗客一人一人のパスポートチェックと指紋登録を行うため、乗客1,800人が入国検査を終えるには3~4時間かかる。
行く予定の施設の閉館時間を確認するなど、上陸後のスケジュールは余裕を持って計画しよう。
ハワイの移動手段は、ピースボートのオプショナルツアー、自分で動く場合はタクシーまたはバスである。最近高架鉄道ができたがまだワイキキ界隈は走っていない。
実はハワイには以前に行ったこともあるので、今回は行き先は妻まかせ。どこにでもついていくからと軽く考えていた。
概略は税関を出た後、時間の関係でまず一番遠いマーケットに出かけて、帰りは船までバスを乗り継ぐつもりだった。
ところがタクシーを呼ぼうとUberアプリを作動させたが、最後の承認に必要なSMSコードが何度チャレンジしてもスマホに届かない。
諦めて、この日はとりあえずバスに乗ったが、Uberが使えなかったことがどうしても気になる。
船に帰ってから調べた結果、理由は格安SIMだった。Amazonで説明を見た時、データ通信、電話共に可能と書いてあったので安心していたが、付属の説明書をあらためて読んで見ると、「SMS非対応」と書いてあった。
皆さんも「格安SIM」にはご注意を。
ハワイのバスはトロリーと呼ばれる観光客向けのオープンバスとホノルル各地をくまなく網羅した「The BUS」がある。
前者は路線と時間が限られるため、現実的には後者を利用することになる。実はこのバスが曲者だ。まず便利であるとの裏返しなのだが、路線が複雑。しかも膨大な数の停留所には時刻表も路線図も一切ない。止まるバス番号が表示しているだけだ。
不便なのはそれだけではない。料金はどこまで乗っても大人3ドルなので高くはない。だが問題はお釣りが出ないこと。デジタル化の進んだアメリカだからと考え、ほとんど小銭を持っていなかった。だから初めこそ二人で6ドルが払えたが、乗り換え時には10ドル札2枚があるだけだった。
よく見ると周りの人はICカードをタッチして乗っている。
早速そのICカードをコンビニのABCストアで購入。他の商品はクレジットカードで買えるが、これは現金だけだという。料金は二人分で約16ドル。1日乗り放題である。
その日はこのカードを使い、無事帰船した。
翌日、再びバスに乗ろうとして、読み取り機にタッチしたが、エラー。
どうやら「1日」は24時間という意味ではなく、その日の24時までということらしい。
立派なICカードなのでもう1日分をチャージできるはずと、コンビニに入ったが、なんとチャージできる店は限られたコンビニだけだという。
特定企業の寡占を嫌うアメリカらしいシステムなのかもしれないが、観光客にとってはとても迷惑である。
さて、絵の話をしよう。実は私はハワイには以前に行ったことがある。その時描いたのは有名な「イオラニ宮殿」だった。今回も訪れてみたが、なにやら貸し切りのパーティ会場となっており、一般人はシャットアウトされて敷地内に入ることはできなかった。
もともとハワイはリゾート地とは言え、ホテルや高級コンドミニアム、オフィスが立ち並ぶ近代都市だ。絵の題材としては私好みではない。というわけで、今回のハワイでは作品なしか…と半分あきらめていた。
だがアラモアナショッピングセンターに行ったとき、隣接する公園にいかにもハワイらしい樹木(菩提樹らしい)が生い茂っていた。その向こうに海が光っている。そして偶然にも(?)妻がその木の根元を何やら見つめていた。
これだ!とカメラのシャッターを切った。その写真を基に船内で仕上げた水彩作品が下の絵だ。
※画像をクリックすると詳細データと絵の購入ページにリンクします。興味のある方はどうぞ。
ピースボートのオプショナルツアー
先にハワイでの移動手段に「オプショナルツアー」があると書いた。今回のハワイでは一番安い「港 ~ワイキキの往復送迎バス」が一人14,000円である。
バスなら一人6ドル(840円)なので、約17倍の料金を払うことになる。いかに英語やデジタルツールが苦手な高齢者へのサービスだとは言え、とんでもなく高額だと言える。
船内のイベント
長い船旅。いかに海が好きでも105日間、朝から晩まで海を眺めているわけにはいかない。人間は刺激が必要なのだ。
その点、ピースボートは色々と工夫している。
ハワイへ着く直前は屋外デッキでの巨大スクリーンでの映画会。今回は[トップガンマーベリック]だった。比較的新しい作品で、ちょうど私が見逃した作品だったこともあり、大満足!。しかも映画館と違い食べ物も飲み物も持ち込み放題。私達は気がつけば赤ワインのボトルを空にしていた。
その他、月見、夏祭りなど企画がされていた。
日常的な企画も多い。私が一番期待していたのが「水彩画教室」。過去の事例を調べると毎回、私が知っている有名な水彩画の達人が講師として乗船しているようだった。
今回は「葦ペン画教室」。材料は葦だが、いわゆる「ペン画」。参加しようかとも考えたが、勝手な水彩画を描くのも迷惑になると思い結局辞退した。
人気の教室は初心者向け社交ダンス教室。私も妻の勧めで生まれて初めてのダンスに挑戦している。
自主企画とピースボートの趣旨
先に述べたイベントは言わば講師によるカルチャセンター。もう一つ乗船者が主催する、同好会、サークルがある。まだ始まったばかりであるが、「ハワイで美味しいもの食べよう!」とか「一緒にワイン飲みましょう!」などという企画があり、私も妻も参加し、それなりに楽しい時間を過ごすことができた。
この自主企画は、「旅による交流が平和をつくる」というピースボートの運営方針から発生するもので、なるほどと頷ける企画も多い。何をいつどこでという情報は毎日発行される船内新聞で確認できる。
一方で、何かというとすぐ「隣の人と自己紹介してください」と司会者が仕切ったり、レストランで見知らぬ人と一緒に座らせたりすることに抵抗を感じる人もいるかもしれない。
コロナ発生!
ハワイに到着する前に船内でコロナが発生したらしい。感染者は部屋に隔離され、手洗い、消毒、マスク着用を強く推奨するアナウンスがしきりに流れている。そういえば部屋を消毒する完全防備の衣を着たスタッフの姿を見かけた。
乗客の中には、見知らぬ人同士が密集するレストランを避け、ルームサービスを利用する人が増えている。
船内の水を信用せず、部屋でペットボトルの水だけを飲んでいる人もいるようだ。
ハワイを出航し丸一日が過ぎたころ、船長より船内アナウンスがあり、医療的な緊急事態があり、コースを変更するとのこと。
一体何があったのかさっぱりわからない。コロナ対策の医療品搬入ためか?あるいは重症者が出たのか?
行き先はハワイ島だった。つまり航路は戻ったことになる。
そしてまさに今、私達が船室のバルコニーから見ているその下で、担架で患者が救急車で運ばれていった。
メキシコで見るべき風景は?
さて次の寄港地はメキシコである。ピースボートのオプショナルツアーは先に述べたように、とんでもなく高価なので紹介しない。
勝手に下船し、飛行機に乗って絵にしたい街にゆき、次の寄港地はで合流する。もちろんその手配は全て自分でしなければならない。
だが、インターネットとスマホがあれば、今の世の中、旅行会社などというものは基本的に不要なのだと思っている。あなたもぜひ自分旅行にチャレンジしてほしい。
さて、船の次なる寄港地はメキシコの港町マンサニージョである。インターネットで調べたところさしたる見所はなさそう。地球の歩き方にも港町として表示があるだけで、観光的な記述はない。
そこで、マンサニージョで下船し、メキシコシティに向かうことにした。下船時刻午前中の予定だが、港から近くの空港まで車で1時間以上かかること、入国手続きの時間ロスなど不確定要素を考慮して、19時頃発、メキシコシティには20時過ぎに到着する航空機を予約した。
私の考えた、スケジュールは以下の通りだ。
初日は夜ホテル着なので、行動は翌早朝から。まずUberを使い、世界遺産であるテオティワカンに向かう。車で片道1時間かかるらしい。→1番出入口→ケツアル→太陽→月(登る)→ジャガー宮殿、ケツアルパパロトル宮殿→3番出入口から再びUberで市内に戻る。なんとかここまでを午前中に周りたいと考えている。
午後からは、有名なメキシコシティ歴史地区へ。具体的なコースはソカロ周辺→ マデラ通り→べジャスアルテス宮殿だ。
本当は現地で腰を下ろして、じっくりスケッチブックを広げたいところだが、過密スケジュールなので、最悪水彩画にできる構図を探し出し、カメラに納めて帰るつもりである。
私は建築家でもあるので有名なルイス・バラガンの作品も視察したい。調べると彼の作品ばかりを巡る旅行会社のツアーもあるようだが、時間的に合わない。だがバラガン邸、ヒラルディ邸だけは、予約すれば個人的に見られるとのこと。日本にいる間に予約をしようと思ったが、予約開始はちょうどハワイを出航するころ。次回ネットに繋いだときに予約しようと思っている。
住宅2件を見学し終わるとちょうど午後5時になる。地下鉄で再び市内に戻って食事、宿泊というコースである。
後はメキシコマンサニージョ到着を待つばかりだ。
航路予定変更!?
突然船長からの緊急アナウンスが流れる。マンサニージョの寄港が2日遅れるという。
105日の長い航海、2日のずれなど大した問題ではない…とゆったり構えていられる立場ではない。何しろ、下船してからの飛行機やホテルの予約はすでに完了している。
2日のずれを修正しなければならない。それでも当初は比較的楽観していた。インターネットさえ使えればなんとかなると考えていたからだ。
ところが、変更処理をするため、インターネット利用券を購入しようとすると、船内売店に「一時的に売り切れ」の表示。どうやら衛星通信の契約データ量をピースボートのオプショナルツアー調整に使うため、一般客のインターネットを制限したようだ。
変更オプショナルツアーが発表された途端、制限は解除され、再びネット使用券が売り出された。だが代理店の対応システムが不備だったこともあり、結果的に時遅しだった。
予約した航空券は全て紙屑となってしまった。幸い予約したホテルは全て無料キャンセルできたことがせめてもの救いだった。詳細は省くが、今回の出来事で学んだ船旅での教訓は以下の通り。皆さんも参考にして欲しい。
①予約は全てオンライン上で変更できるシステムであることを確認する。
例えばブッキングコムの宿泊予約は問題なし。定められた日までの、日時変更、キャンセルは全て自動、オンラインで決済可能だ。
ところが同じブッキングコムでも、航空券予約はやめた方がいい。宿泊と違って、オンライン上に「変更」の項目が存在しない。どうやら変更はヘルプデスクに平常営業時間内に電話で申し入れて欲しいとのことだ。
船内では電話は通じない。電話先の営業時間と船内時差の考慮、英語での変更対応など敷居がとても高い。
しかもネット自体制限されていたので交渉に許された時間自体もほとんどなかった。並行して変更依頼メールを送ったが、「48時間以内」にメールで返答するとの自動メールが機械的に返信されるだけ。時間切れを待つしかないというわけだ。
なお、航空会社のホームページにアクセスして、予約番号を伝え、直接変更しようとしたが、代理店(ブッキングコム)の予約は受け付けられないと拒否されてしまった。
つまり、航空機はブッキングコムなどの代理店ではなく、航空会社のホームページから直接予約すべきだ。
それならばいつでも、どこからでも、ほんの数分インターネットにつながれば、誰ども即時に変更できる。皆さんも気をつけて。
②予約チケットのタイプを慎重に選ぶ
ホテル、航空券の区別に関わらず、一般に「予約日時限定、変更不可」が一番安い。確実に利用できるならこれを選ぶべきだろう。
私が今回選んだ航空券は、万一を考えての「フレキシブルチケット」だった。
これは出発の24時間以内なら日時変更は可能だがキャンセルはできない。先の変更不可チケットに比べると、2割ほど高かったが、船旅であることを考えればやむをえないと判断した。
最後は日程変更もキャンセル可能なチケット。今回はこれを選んでおけば、問題なかったのだろうが、値段は「フレキシブルチケット」のさらに2倍ほどしたと思う。キャンセル確率とのコストパフォーマンスをどう考えるか、悩ましい問題ではある。
さて先に述べたピースボート主催のオーバーランドツアーはどうなったか?こちらは、事前に莫大な予約金を受け取っているだけに、その調整に苦労したことは想像に難くない。
船内では知り合った知人に聞くと、日程が短縮され、内容が大幅に変わってしまったにも関わらず、返金は数%だけだという。彼は「ピースボートには二度と乗らない」と息巻いていた。
メキシコ、マンサニージョに到着
乗船してからトラブル続きの旅も、やっとアメリカ大陸に到達した。メキシコシティーからグアテマラシティーへの旅は夢と消えたので、とりあえずこの港町を歩くことにした。
観光的には何もないとの情報だったが、船上からは、ご覧のように丘の上までカラフルな外壁の建物が続く、面白い風景が見られる。
気温は34度。湿度も高く、快適とは言い難い。スケッチブックを持って街に出かけたが、日陰を選び、帽子をかぶっていてもすぐに汗まみれだ。スケッチすることは諦め、あとで水彩画として仕上げられる構図をカメラに収めることにした。
絵になる町の風景はそれなりにある。屋根はスパニッシュ瓦、レンガにモルタル、ペンキ塗りの外壁。路地は基本的に地元産の切石を敷き詰めている。
ドアや窓は粗末ではあるが、古い建物にはアイアンワークの模様が施されている。中にはスペイン風イスラミックアーチを用いたものもある。日本の既成品を集めた建売住宅ばかりが並ぶ町に比べればよほど魅力的だ。
町は小さく、半日も歩けば大抵の雰囲気は掴めてしまう。船の乗客の中には暑さに負けて、昼食後、早々に船に退散した人もいたようだ。
食事、買い物情報を少し付け加えておく。お金はメキシコペソ。1ペソは10円弱。スーパーマーケットや露天商の値段を見る限り、物価は日本とあまり変わらない。
だが、店のトイレなどを覗くと、かなり綺麗なレストランを選んでも衛生状態は悪い。下水整備状況が悪そうだ。正直、この町でゆっくり食事をしようという気にはならず、シュリンプタコスとビールだけで引き上げた。
言葉はスペイン語。英語は99%通じない。そこで翻訳アプリを試してみた。ソフトの能力としてはそれなりに使える。が、この田舎町ではいまだに3Gしか使えない。ネットを介してのアプリは反応が遅く極めて使いにくかった。
幸い、妻がオフラインの翻訳アプリをインストールしていたので、大助かりだった。
商品の値札は$表示。アメリカドルかと思ったらこれがペソだった。35$のタコスは「4,000円!?」ではなく350円だった。
メキシコペソは銀行(バンコと発音する)のATMなどで入手できる。だが観光客の大半はアメリカドルで支払っている。お釣りはセントではなく、メキシコペソだ。
余ったペソはどうするか?雑貨を買うくらいしか思いつかなかった私だが、妻の提案を実行することにした。帰船直前に入ったバルの支払いに、まず小銭ペソを使い、残金をクレジットカードで支払うと交渉するのだ。
そこで、まず支払いカウンターの上に、ポケットにあるペソの有金を並べる。次にクレジットカードを手に持ち、「リメイン、OK?」と身振りもまぜながら確認するのだ。
幸い、レジ担当の女性は賢く、すぐに理解、無事支払いと、小銭の処理を終えることができた。皆さんも試してみると良いだろう。
マンサニージョでの戦果はもう一つあった。私が旅行前に買ったSIMがSMSに対応していなかったため、期待していたUberが使えなかったことは、すでに述べたとおりである。空港であれば、替わりのSIMは手に入るが港町では無理だろうと諦めていた。ところが大型の電気機器店舗で、中米、アメリカまでをカバーするSIMが購入できたのだ。
iPhoneに挿入、店の人に設定をしてもらい、作動することを確認した。これで、中米のスペイン語に悩まされずにUberが使えると、一安心して、帰船した。
※船内で描いたマンサニージョの絵はこちら→「港町 Manzanillo」。
グアテマラの古都アンティグアを歩く
メキシコ 〜グアテマラの旅は本来は先に述べたようにメキシコシティーを経由してグアテマラシティー、アンティグアで各一泊した上で港町プエルトケツアルで船と合流する予定だった。
だが旅程の変更のため、結局プエルトケツアルから世界遺産で有名なアンティグアへ日帰りで行くことにした。
移動は当初は早速Uberを使うつもりだった。だがプエルトケツアルはタクシーさえほとんどいない町でUberも結局グアテマラシティーから来るのだという。つまり片道1.5 〜2時間のお迎え料金を払うことになり、とても高くつく。
どうやら今回はピースボートのお迎えバスの方が安いらしい。片道2時間トイレ休憩はないものの、バスにトイレが付いているので、心配はない。
アンティグアは高地にあるため、マンサニージョに比べれば、涼しい。絵を描くにも快適だ。
だが、さすが世界遺産として有名な町。観光客の数が半端ではない。しかもこの日は〇〇記念日の祭日。いつにも増して人が多いとか。
さらに、それに比例して車が多い。道に車が隙間なく駐車し、排気ガスも凄まじい。
密かに水彩画にしようと狙っていた時計塔を含む構図もご覧の通り。人と車が美しい町並みを覆い尽くしている。
いずれ「世界遺産」を取り消されるのではと心配してしまったほどである。
またしてもSIMに泣く
アンティグアはピースボートのバスを使用したため、マンサニージョで買ったUber用のSIMを一旦抜き、持参したSIMに差し替えて使っていた。
そして帰船し、次回のパナマでのUber使用のため、再びマンサニージョで買ったSIMに差し替えた。
ところが、どういうわけか、この再び戻したこのSIMでのインターネット通信が出来ない。Uberはおろか、グーグルマップさえも見られない。
SIMの解説はスペイン語で分からず、ネットでトラブル検索しようにも、おそらくまた高価なWi-Fiチケットが何枚も必要となるに違いない。
私の知識で、できる限りの設定を試したが、二度とネットワークに繋がることはなかった。
※船内で描いたアンティグアの絵はこちら→「時計塔 Antigua」
パナマシティを歩く
今回の旅、3カ所目の停泊地パナマを歩くにあたり、心配事が二つあった。一つは手持ちの現金(米ドル)がほとんどないこと。これはマンサニージョもアンティグアも思ったよりクレジットカードが使えず、ドル現金払いがかさんだためだ。
もう一つは現地の治安と移動手段である。ピースボートの寄港地情報によれば現地の治安は良くないという。タクシー料金も基本的にはスペイン語による運転手との交渉しだいらしい。手持ちのドルは13ドルしか無い。交渉が上手くいかなければ、お手上げである。
厄介事を避けるためのピースボートのオプショナルツアー「港 〜旧市街送迎バス」は例によって高価、二人で10000円かかる。しかも今回はそれもすでに完売済みだ。
さて、どうするか。せっかく来たのだから、世界遺産に認定されている、パナマの旧市街だけは訪れたい。散々悩んだ末、以下の方針を立てた。
まず港でATMを探す。現金でバス用交通カードを買い、旧市街へ行く。交通カードが買えなければ、仕方がないので運転手交渉必須のタクシーを利用する。
実は停泊地バルボア港の税関、ターミナルは工事中で、ピースボートの一行はシャトルバスで港近くのショッピングセンターで下ろされる。
降りた瞬間、無数のタクシー運転手、旅行会社のセールスマンが私たちに押し寄せてくる。彼らを掻き分け、まずはATMを探すが…無い!初めから暗礁に乗り上げてしまった。
困り果てたところで、妻が一人の人間を指差した。「あの人、ピースボートのスペイン語担当の人!」と、迷うことなく近づき、「ATMの場所知りませんか?」と尋ねたのだ。
彼は日本語は出来ないが、英語はできる。彼曰く「ここにATMはありません」
「…!?」困り果てた私たちに彼は救いの手を差し伸べてくれた。彼がスペイン語で運転手と交渉し、10ドルで旧市街まで行くのだという。
同乗するか?と提案されたので、もちろんOK。10ドルを折半し、なんと2人で5ドルで旧市街まで、安全に行くことができたのだ。
さて世界遺産「パナマ旧市街」について述べよう。観光パンフレットなどではいくつかの教会、あるいは旧スペイン時代の廃墟が紹介されるが、建物単体としては、教会も、邸宅も特筆すべきデザインのものはない。
パナマの首都パナマシティーが超近代的な街として発展を遂げる中で(上図)、この一画だけが歴史的な街並みを保存していることが選定の理由のようだ。
それでも町は複数の教会と広場を中心にコンパクトにまとまり、屋根、壁、開口部がスペイン風の様式に統一された町並みは美しい。一見の価値ありだ。
さて、旧市街の銀行で無事に現金を引き出すことができ、一安心したものの、帰りのバスに乗るための交通カードの売り場がどこにあるか分からない。
同時通訳アプリを使い、その銀行のガードマンに聞くと、バスは路線が複雑なようで、観光客には向かないという。やはりUberが一番いいと勧められた。
少しでも安心できるドライバーを頼むには大きな、レストランかホテルで呼んでもらうしかないかと腹を括った。
こうして本格的に散策を開始する。お目当ての建物、広場を一通り回り、絵になりそうな風景を写真に納めた(上図)。
そろそろ帰ろうと、タクシーを呼んでもらうレストランを探していた時、一台の車の中から声をかけられた。なんとここへくるときに乗せてもらったタクシーの運転手だった。
無数の観光客の中から、まさに帰り時間に、私たちを見つけてくれるなんて、こんな偶然があるだろうか?神様に感謝しつつ、彼の車で無事帰船した。
海の風景
今回の旅は東回り。日本を出てから、ハワイまで10日ほど。ハワイを出てからメキシコマンサニージョまでやはり十日ほどかかる。
この間ほとんど海ばかりを見ることになる。私の住む神戸は港町なので、海そのものは「見慣れている」…つもりだった。
だが船から見る海の風景は、いつもの風景とは違い、新鮮だった。いくつかを紹介しよう。
- 蒲鉾型の雲
雲の下部を水平に切り取った雲。海上の湿気を含んだ水蒸気は一定の高度で露点温度に達し雲となる。森もビルもない海上では水平線の向こうまでこの雲が遠近法に従って続いてゆく。地上ではなかなか見られないこの光景。海上では日常茶飯事である。
- 雲と虹
地上では運が良ければ雨上がりに見られる虹。視界の良い海上では自分が雨に降られなくとも結構頻繁に虹が見られる。はるか先の黒雲の下は大雨に違いない。その雲が通り過ぎた後にはご覧のような虹ができる。運が良ければ視界いっぱいに虹が広がることもある!
- 紺碧の海
太平洋ど真ん中。「紺碧の海」という言葉が腑に落ちる。神戸の海も十分に美しく青かった。だが「紺碧の」という表現は私自身使ったことがない。
絵具で言えばコバルトブルーよりもさらに青く、深い色。かといってプルシャンブルーほど暗くない。
水は透明に見えるが、実は少し青みを帯びる。青い波長の光を水中で反射するからだ。この青は海が深いほど、不純物がないほど際立つに違いない。
そして水面ではうねる波の角度によって、いや波の強弱によって、ある時は強く、あるいは弱く空の青を映して私たちの目に届く。
この複雑で美しい青は海原でこそ見られる色なのだ。
- 海の生命
海は命の源だと言う。最初の地球の生物が生まれたのは海だ。そして今も様々な生き物が海に棲息している。
しかし、船室、言葉を替えれば絶海の孤島から見る海には生物の痕跡など見られない。来る日も来る日も、水平線の向こうまでひたすら空と海が広がるだけだ。
そんなある日、船室のバルコニーから見る風景を何かが横切った。カモメだ。「漂流者がカモメを見て、陸が近いことを知る…」まさに小説で読んだ希望の瞬間を擬似体験したのだった。
当然だが、陸に近づくほど彼らは群れをなす。船と並翔することを楽しんでいるようにも見える。
写真は撮れなかったが,イルカ(?)らしき大型の生き物が水面から飛び跳ねている姿も観察できた。水族館のイルカショーよりもはるかに感動的だったことは言うまでもないだろう。
- 朝日と夕陽
地平に太陽がかかる時、人は神々しいものを感じるに違いない。その証拠に富士山から見る日の出を見ようとする人々は、ほとんど年中絶えることがない。
私など、かつては徹夜明けのビルの谷間から見る朝日にでさえ感動を覚えたほどだ。
さて、山もビルもない海の朝日と夕陽。さぞ美しい写真が撮れると思うかもしれない。現実に毎朝デッキ出て高級カメラを三脚に据える人々がいた。
だがその手の完璧な朝日と夕陽の写真はプロの写真家にお任せしよう。
私の選ぶ夕陽見てほしい。先に述べた「蒲鉾型の雲」と水平線の隙間に太陽が落ちてゆく瞬間だ。ちなみに太陽の方角に向かっている白い波は船の航跡である。つまり日本からアメリカ大陸に向かって真東に進んでいる証明でもある。
そして夕陽(上写真 )。
船内放送ではまもなく天気は荒れると言う。デッキの風も台風のそれに近い。この日目が覚めると窓の外に微かな明かりが見えた。夜明けが近いと感じ、最上階のデッキの先端に出る。
先客は朝日撮影の常連さんたち。だが彼らはカメラをしまい始めた。どうやら天候の悪い今日は「だめ」な日らしい。
私にはそうは思えない。陸上よりもはるかに赤く大きな太陽は厚く、黒い雲の隙間からその面影を覗かせ、取り囲む雲の表面を赤く染め上げる。
雲の形は炎にも似て、海上はまるで火事の如し(下写真)。
こんなドラマチックな朝日は見たことがない。荒々しい風景に神々しさは感じない。だが自然の神秘であることは間違いないだろう。
海上で水彩画を描く
この記事ではもっぱら、世界一周旅のノウハウについて書いている。ピースボートの主催の船内イベントも乗客の自主企画のイベントもそれなりに参加している。
だが本来の目的は水彩画を描くことで、船内生活に合わせた、効果的な制作スケジュールを色々と考えた。
理想は先に述べたように、水彩画教室で著名な水彩画家とともに絵を描ければと思っていたのだが、残念ながら今回は私の意図に合わない企画だったため断念。
部屋で一人水彩画制作に励むこととなった。
最初の成果品は先に述べたようにハワイでの一枚。だが実はその前に一枚描いていた。というのはハワイに到着するまで、10日以上はずっと海の上、時間はたっぷりある。
そこで以前から仕上げようと思っていた、岐阜県白川郷の風景を描くことにした。
えっ、「海の上で白川郷?」と思うかもしれない。だが私は描こうと思った風景の印象は何年経っても不思議と忘れない。描き始めた瞬間に、その時の光景が蘇るのだ。この作品の制作詳細については「白川郷の畦道を描く→」に詳しく記した、ぜひ を読んでほしい。なお画像をクリックすると詳細データと絵の購入ページに飛べる。興味のある方はどうぞ。
パナマ運河を通過する
誰もが知るパナマ運河。その最大の特徴は運河の水面にレベル差があること。運河に入った船は、ロックと呼ばれるレベル調整ゾーンに入り、注水、排水を繰り返し、水面レベルを次の水面と同じにする。
するとロックのゾーン扉が開き、船は次の水面レベルで航行することになるというわけだ。そして全てのロックを通り抜けるには約10時間かかるらしい。
一つ目のロックの扉が閉じられる記念的イベントを目撃し終え、昼食をとっていた時、突然レストランの照明が消えた。
すぐに非常照明がつき食事そのものは無事終えたが、どうやら動力系が故障したらしい。
やがて、エレベーターは動かず、空調も効かず、水も出なくなり、トイレも使えなくなった。
当然船内は大パニックに。レセプションカウンターには乗客が一斉に押し寄せ、説明を求めたが、何が原因で、いつ正常にもどるのか明快な答えはない。
私自身は阪神大震災の経験があったので、それなりに覚悟を決めていた。
あの時は水を求めて、外を歩き回ったが、今回は赤道直下に近いパナマ運河の上。空気は蒸し暑く、船の横をワニが泳いでいる(下図)。
慌てて補充した、水筒の水を少しずつ飲み、節約する。熱を入れないよう窓を閉じ、ベッドに横になる。今回はじっとしているのが一番だと判断した。
結局、ピースボートから最後まで納得のゆく説明はなかった。何もかも使えない、一時のパニックは治ったものの、パナマ運河航海中、ずっとトイレやシャワー、氷の供給、水の節水制限など、「快適な船の旅」ならぬ「監獄生活」を強いられることになった。
数日後、ピースボートから乗客全員にお詫びに5,000円を返金するとの報告があった…。
ジャマイカに到着、すぐ出発?
今回のピースボートは過去最大の客船で寄港地も26港、過去最多らしい。もちろんより多くの土地を見られるのは嬉しいのだが、その分寄港地滞在時間が短いのだろうか。
基本的にほとんどの港が当日の朝入港、その日の夜出航だ。
特にこのジャマイカ、オーチョリオスには朝9時に着岸、上陸手続きを経て、10時過ぎに下船したのは良いが、帰船リミットはなんと13:00。移動時間も含めてわずか3時間しかないと言う超過密日程だ。当然遠出は不可能、港周辺を歩くと言うプランしかない。
そしてもっと充実した旅がしたい人には、例によってピースボート主催の約100万円のオーバーランドツアーに参加して、カナダで合流するというプランが用意されている。いたれりつくせりというわけだ。
もっともビーチリゾートが売り物の島なので、泳ぐ気のない私にはちょうど良かったのかもしれない。
地元のマーケットで新鮮な極甘の果物を食べ、妻が調べたおすすめエビ料理を食べたら、もう帰船時間だ。それなりに充実した3時間だったと言っておこう。
マイアミ到着
待ちに待ったマイアミ!
といってもここを描きたいという、こだわりの風景があるわけでは無い。言いたいのはここが、久しぶりの英語圏だということ。
これまで回ったメキシコをはじめとする中米諸国はスペイン語圏である。だから言葉がさっぱりわからない。もちろんかつて本国スペインを旅した時も、それなりにコミュニケーションに苦労したが、公共の場では英語を話す人も結構いるし、街中の各種サインにも英語表記がある。だからスペイン語がわからなくても、それほど不自由は感じなかった。
だが中米ではほとんど「英語の気配」が無い。ことばの壁をつくづく感じていた。かなりフラストレーションが溜まっていたと言ってもいいだろう。
ところが、ここマイアミではタクシーの運転手にも、レストランの店員にも私の拙い英語がそれなりに通じる。メニューもパンフレットももちろん英語で理解可能だ。一気に開放的、旅の気分が高まったのは言うまでもない。
ただし人間はコミュニケーション能力が高まると、気が緩むらしい。気がつくと一杯2,000円もする瓶ビールを躊躇せず注文していた。皆さんもご注意を!
・アールデコ建築群
さて、マイアミの見どころを紹介しよう。当初は「ビーチ」しか無い町だと思っていた。ところが調べてみると、私のような絵と建築に興味のある者にとっては案外面白い町だった。順に説明しよう。
この建築様式、「アール・デコ」について説明すると、それだけで長い記事を書かなければならなくなる。だが誤解を恐れず説明しておく。
外観には19世紀後半に流行ったネオルネサンス、ネオシック、ネオバロックといった古典的モチーフの装飾はいっさい使用していない。
かといって四角い箱型の建物にシンプルに窓をはめ込んだ無機質で退屈な現代建築でも無い。
20世紀初頭の近代的なコンクリート構造、鉄骨構造をベースに、大量生産を意識した優れたオリジナルデザインを施したエレメントで組み上げた建築とでも言おうか。ニューヨークのクライスラービルが代表的な建築として有名だ。
マイアミビーチの海沿いの通りにこの様式の建築でもある「アールデコ ウェルカムセンター」と言う展示施設がある。その資料によるとマイアミのアールデコ建築がなんと109棟もリストアップされている。
もちろんマイアミビーチにある主要なホテルやレストランも選定されている。泳ぐだけでなく、近くの建物もチェックしておいて損はないはずだ。
・壁画の町 ウィンウッド
建物の壁面を絵で飾る…特に珍しい行為では無い。だがマイアミのこの一帯は全ての建築の外壁、いや道路面さえもアートで埋め尽くされているといってもいい。
その建物が店舗ならばまだ納得できるが、オフィス、学校、駐車場、工場など観光客相手の商売と関係ない建物までもその対象になっている。
つまり描く方も描かれる建物の所有者の総意でこの街ができていると言うことだ。1時間ほど街中を歩いたが次から次へと現れるアートと建築とのコラボレーションに全く退屈することは無かった。アートと建築の好きな人にはおすすめの街である。
・リトルハバナ
観光案内にはキューバからの移民が作った町で、アメリカとは一味違う文化が感じられると書いてある。だが実際に行ってみると、平凡な住宅と観光客相手の店舗ばかりでそれほどみるべきものはないと感じた。
もっともこのマイアミではビーチ以外には流しのタクシーはいない。実はウインウッド、リトルハバナではほとんど正規の黄色いタクシーは見つからなかった。刻々と迫る帰線時刻に戻るタクシーを探すのに気を使い、町の良さを見逃したのかもしれないと断っておく。
リトルハバナで最大の収穫は昼間から、本場のカクテル「モヒート」を味わうことができたことだった。
ニューヨーク到着!
愛用のアップルウォッチを見る。歩くこと3万歩、距離は20kmを越えた。この日ニューヨーク滞在数時間で記録した数字である。
なぜ世界の大都会、広大なニューヨクをこんなにものすごいスピードであちこち移動するのか?
最大の理由はピースボートの滞在スケジュールが短時間であったことだが、もう一つの理由はやはり都市の密度が濃いからだ。言い換えればあらゆる意味で見どころが多いのだ。
特に私のように建築をかじっている人間にはニューヨークは歴史的、デザイン的、技術的な魅力がこれでもかと言う具合に詰まった都市に見える。
もっともっと時間が欲しかった!
私の移動した順に従い、皆さんにもこの都市の魅力の一端をご紹介しよう。
これまで見てきたように、クルーズ船が着岸する港と中心街が遠い場合が多い。だから街まで行くのにバスやタクシーがあるかを心配しなければならないし、あってもその順番待ちで時間をロスするはめになりがちである。
・交通手段
その点ニューヨークは地下鉄網が発達している。港から地下鉄の駅まで歩いて15分ほど。帰船時間に間に合うタクシーを探す必要もない。実にありがたかった。
ハワイがそうだったように、最近はどの都市も交通系のICカードをプリペイドで購入して乗るパターンが多い。私もこのカードを駅で購入するつもりでいたが、よく見るとアップルpayが使えると表記されている。
私のiPhoneにはVISAとマスターカードそれぞれ登録してあるので試してみた。するとマスターカードの方が反応し、改札を通ることができた。(VISAカードでなぜ通れないかは不明)
残金や再チャージの手間を心配することなく地下鉄に乗れるこのシステム、旅行者にとっては実にありがたい。全世界の鉄道に広めてほしいものである。なお、アップルpayだけでなくGoogle payにも対応しているらしいので、アンドロイドスマホを使用の方もご心配なく。
・ニューヨークの地形
ニューヨークといえばハドソン川沿いの都市だと単純に思っていたが、地図をよく見るとこの川の中央が州境になっている。西側がニュー・ジャージー州、そして東側がニューヨーク州になっている。ニューヨークのシンボルでもある「自由の女神像」は実はニュー・ジャージー州にあるのだ。マンハッタンはハドソン川の東岸、ブルックリン橋をくぐった先にあるイースト川の西岸に挟まれた中洲のような地形にある。
今回の船着場はハドソン川の東側、紛れもなくニューヨークである。
そして私が取材する街は北側アッパー・マンハッタンから南のブルックリン橋まで、Googleマップで直線距離を測ると約17kmの範囲である。
・アッパー マンハッタンへ
このゾーンには有名なヤンキースタジアムがある。ピースボート船内の寄港地案内でも「野球好きの人は是非!」とお勧めしていたようだが、あいにくこの日は試合はなかったらしい。
私が最初に目指したのはコロンビア大学。ニューヨークと言う土地代の高い地域で広大な土地をしめている。(下写真参考)
伝統校だけあって校舎の大部分はクラシカルなデザインの建物が多い。私が目指したのは、そんな中で、ひときわ輝いて見える、ガラス張りの高層ビルだ。グーグルマップでは「コロンビア大学Tower1」と表示されている医療系の施設のようだ。
外観のデザインもユニークだ。フラットなガラスの外壁から階段室や(小部屋がユニットとして飛び出している。(上写真参照)
内部も見たかったが、交渉する時間もなかったので外観写真だけで満足することとし、次の施設に向かう。
以下この日回った施設と一言(印象)コメントだ。建築好きの人には物足りないに違いない。改めて、もっとじっくり巡ることをお勧めする。
・7 World Trade Center
ご存知米国同時多発テロで破壊されたビルの再建。全面美しいガラスで覆われている。
・56 レオナード・ストリート
有名な建築家ヘルツォーク&ド・ムーロンにより高層住宅。特にユニークな頂部の形態は豪華な邸宅の機能を反映したことによるとか。
・グッゲンハイム美術館
言わずとしれた、20世紀の巨匠フランク・ロイド・ライトの代表作。螺旋状の展示スペースの使い勝手を体感したかったが、この日はその部分が館内作業のため、立ち入り禁止。だが逆円錐型の吹き抜け空間とトップライトからの光の演出は60年以上昔のデザインであることを全く感じさせない。
・Tribeca Synagogue(トライベッカ シナゴーグ)
「シナゴーグ」とはユダヤ教信者の集会所のこと。50年ほど前の建物だが独特の曲線の外壁が異彩を放つ。ただメンテナンスが悪く、汚れがひどい。残念!
・Spring Street Salt Shed(スプリングストリートソルトシェッド)
用途は凍結防止剤の貯蔵庫。したがって窓は不要で本来なら単調な箱型の建物にになりがちだが、形態的な制限のないことを逆手に取ったためなのか、こんなユニークな形状に。
・グリニチ・ビレッジ Greenwich Village
超現代的な都市、ニューヨークにあって、19世紀の町並みを残す住宅街である。緑多い街路と洗練された伝統的デザインの建物が続く様は歩いていて心地よい。「アメリカ合衆国国家歴史登録財」(日本の「重要伝統的建造物群保存地区」のようなものか)に登録されている。
・ホイットニー美術館
パリのポンピドゥセンターを設計した世界的な建築家レンゾピアノによる作品。繊細なディテールとダイナミックな外観が目を惹く。今回は時間切れで内観は見られず。残念!
・ハイライン
ホイットニー美術館のすぐ横に最南端の上り口がある。廃線になった高架鉄道跡を空中公園にコンバージョンしている。線路に沿って単にビルの谷間を歩くだけの構築物ではない。様々な仕掛けが施され、道は緑と水に溢れ、ある時は足元の街を見下ろし、ある時は建物の中に貫入し、歩きながらニューヨークと言う街の生活を堪能できる。
・IAC本社ビル
その特徴をひと言でいえば、「建物外壁に垂直な部分が無い…」。そう「ビルバオのグッゲンハイム美術館」で有名な巨匠、フランクゲーリーの作品。正直なところ、オフィスビルにこの形態が正しいのか、体験してみたいところだが、やはり時間がなくて今回は外観だけ。残念。
・シーグラムビル
フランク・ロイド・ライトと並ぶ巨匠、ミース・ファンデル・ローエの作品。もっともグッゲンハイム美術館と比べると外観は一見地味、用途も事務所ビルと言うこともあり、一般人にはそれほど有名ではない。実際、タクシーの運転手にビル名を告げても「知らない」と言われ、戸惑ってしまった。
内部はやはり残念ながら見る時間なし。
外観の鉄のディテールはさすがと、唸らせるものがある。安易にアルミサッシを使うことに慣れた私には大いに刺激になった。
・Lever House(リーバ・ハウス)
外観の第一印象は新宿によくある普通のビル。だが実は現代の高層ビルの教科書となった60年前のオフィスビル。柱のない使いやすく、自由度の高い大空間、コンクリート壁を取払い、明るいガラスの壁で建物を造る。この建物もまた「アメリカ合衆国国家歴史登録財」に登録されている。
・アップル フィフス・アベニュー店
主役は建築ではない。アップル製品の良さを主張するために建築は「消えなさい」…そんな命題を解決した建築家の答えがここにある。
・ニューヨーク近代美術館(MoMA)
主役は建築ではない。「美術館品の鑑賞を邪魔する建築要素は消しなさい」そんな命題を解決した建築家の答えがここにある。
・ニューヨークの夜景
私の長年の経験によれば、「夜景が美しい街」の条件は少なくとも3つある。一つは照明の色がバラエティに富むこと。逆に言うと、蛍光灯一色で照らされるオフィス街の夜景は美しくない。
もう一つは光を反射する水面があること。光の数は倍になり、さざなみにより光はさらに表情豊かになるからだ。
最後の一つはその土地が起伏に富むこと。点在する光が平面だけでなく立体的に輝くことで、目に映る夜景の構図は完璧になる。
「夜景」で有名な香港はもちろん、私の住む神戸もそれら全ての条件を満足している。
ではニューヨークはどうか?
1番目の「照明の種類」は全く問題なし。オフィスも学校も商業施設も、包含する街は蛍光灯一色ではあり得ない。カラフルな照明に溢れている。
2番目の「水面」はどうか?
香港や神戸のような海はないが、巨大なクルーズ船が航行できるハドソン川がある。したがってこれも問題なし。
最後の「起伏ある地形」…実はニューヨークは平坦であり、条件に当てはまらない。ではニューヨークの夜景は美しくないかと言うと、結論を言えばとても美しい。
ニューヨークに別れを告げるピースボートの船室から見た夜景ははっとする美しさだったと言っていい。(上写真参照)
秘密はこの日歩き回った超超高層のビル群だ。ある意味、近距離でそびえる高層ビル群は、最後の条件「地形の起伏」よりもはるかに視界いっぱいに灯りを配置してくれる。現代建築が産んだ「夜景の美」といっても良いのではないだろうか?
ここまで書いてはっと気がついた。この日歩いた距離は20km、歩数は3万歩を越えていることは先に述べた。普段の4〜5倍の距離を歩いたことになる。通常のスケッチ旅なら、2〜3枚はゆうにスケッチしたはずの距離である。
だが振り返って考えると、スケッチしよう、あるいはカメラを構えて、水彩画にふさわしい風景だと感じた瞬間は一度もなかった。
現代建築と街は絵にならないのか?いやそんなことはないはず…など色々と考えさせられる旅でもあった。
紅葉のモントリオールへ
マイアミまでは船外活動は全て半袖、女性はノースリーブの人も多かった。だが船が北上するにつれ、気温は一気に下がる。
ニューヨークでは長袖シャツにウィンドブレーカーを羽織った。そしてさらに北上、ピースボートのパンフレットでは10月中旬のカナダは俗に「メープル街道」と呼ばれるように、最高の「紅葉の季節」だと言う。その代わり例年気温は一桁まで下がるらしい。寒さ対策を忘れずにとのことだった。
さて下船の日、周りを見るとダウンジャケットの乗客が多い。私はと言うと、残念ながらダウンのコートしか持ってきておらず、流石にそれは着すぎだろうと、ニューヨークと同じ長袖、ウィンドブレーカーで出かけることにした。
だが皆の予想は見事に外れた。暖かい…。ダウンジャケットどころか、地元の人の大半はなんとまだ半袖だ。
ありがたいと感謝したいところだが、暖かいのはメープルにとっても同じ。公園の樹々に紅葉はほとんど見られず、青々とした葉が茂っていた。
さて私が見て、感じたモントリオールの街を記しておこう。
・言語
カナダの公用語は英語とフランス語両方である。だがここモントリオールと次に訪れるケベックシティはかつてフランスが統治していただけあって、主要言語はフランス語である。当然街の各種表示、レストランのメニューもフランス語である。だが驚くことに、街の人の大半は英語、フランス語両方を極めてシームレスに使いこなす。
レストランの店員が妻のフランス語の質問には当然フランス語で答える。だが同じ店員が、私が横から英語で口を挟むとすぐさま英語で応答してくれる。英会話でさえ満足にできない私にとって、極めて新鮮な体験であった。
モントリオールの見どころは紅葉を除けば、旧市街の町並みと充実した地下街、巨大なショッピングセンター、イートンセンターだ。以下に私の感想を記しておこう。
・旧市街
ほとんどの建物は「石積」である。私も建築設計者として外壁に石を使ったことは多々あるが、全て「石張り」である。日本には良質な石材が少なく、コストが高いことと、積層する工法は地震が多い地域には向かないことがその主な理由だが、構造体としての石の存在感を見せつけられると、ひたすら石を薄く切る技術を磨く日本に寂しさを感じざるを得ない。
外観はルネサンス風で窓や入り口、屋根は様式的な装飾で飾られている。観光客が多いためか、メンテナンスも悪くない。ただ建物用途はほとんどが観光客向けの商業施設にコンバージョンされているようだ。そのせいか、建物の個性は感じられない。道幅に対して建物が高く、壁と窓が単調に続く構図は案外絵にしにくいと感じた。
・モントリオール大聖堂
旧市街に建つ一番有名な建物と言っていいだろう。歴史ある壮大な外観を絵にしようと、周辺を歩き回ったが、あいにく外壁改修中。かなりの部分に足場がかかっていて絵にならない。想像で描くわけにもいかないので、今回は聖堂主役の水彩作品は諦めることにした。
実はこの聖堂は内部のインテリアも素晴らしい。天井の星型ヴォールト、祭壇周りの照明を含めたデザインは見事である。
しかも私が訪れた時は、巨大なパイプオルガンの生演奏中だった。目に映る華麗な光景に荘厳な旋律が重なって生まれる、幻想的な空間にしばし時を忘れるほどだった。
・イートンセンター
かつて商業施設を設計する者にとってこのショッピングセンターは教科書となる存在だった。
だが、地下鉄、地下街と直結する階とその上階は賑わいを見せているが、アクセスの悪いさらに上の階はほとんどの店舗が閉店している。商業施設の寿命は短い?と改めて考えさせられた。
・セントローレンス川
モントリオールも悪くない。だがもっと満足した風景がある、それはセントローレンス川の河岸風景だ。今回大西洋からこの川を南下してカナダに入った。
両岸の豊かな緑に教会や民家が点在する風景は見ていて飽きない。船の適度な揺れは心地よい眠気を誘い、目に映る光景は夢うつつの世界でより美しく再現される。
そして夕暮れ。夕陽が大気にオレンジのグラデーションを作り出し、セントローレンス川の藍色と混じり合う…自然が描いた水彩画のようだ!(上写真参考)
今回の旅1番の幸せなひと時だったと言っておこう。
下船時のトラブル
世界中、どの国も大抵観光地と空港、鉄道の駅とのアクセスはよく考えられている。地下鉄やバス専用の路線があり、短時間で中心街と駅が直結しているところが多い。ところが港と中心部の交通機関はあまり考えられていない都市が多い。市内へのアクセスがとても不便なのだ。
だから鉄道や航空機よりもはるかに大量の乗客を吐き出す、クルーズ港では交通上の混乱が発生する可能性が極めて高い。
さらにピースボートの運営も乗客のことを考えているとは思えず、毎回トラブルが発生する。いくつか例を紹介するので、ピースボートの旅を考えている人は参考にしてほしい。ピースボート事務局も反省してほしいと思う。
・下船時の出口管理
ピースボートの決まった方針は方針はなさそうで、場当たり的と感ずる。最初は下船時刻を船の階毎に厳密に指定していた。(グレードの比較的高い)上階から先、下階は後だ。幸い私は最初のグループだった。
だが実は最上級のスイートルームは下階の端部にある。だから必ずしも合理的、平等ではない。
下船時間が遅くなった乗客からクレームがあったせいかもしれない。次のある港では階別指定が甘くなった。すると、前回最後に回された下階の客層が一刻も早く外出しようと朝早くから出口前に並ぶ。
指定された時間に出ようとすると、それ以外の客がすでに並んでいて、入り口前が過密状態となり、互いに罵倒し始める始末だ。
この時は急遽出口前でIDカードを確認し、階の該当客から出すような対応をとっていた。
ある時は、階指定を一切やめ並んだ順に出られるようにした。すると船内で1800人の乗客が外出許可予定時の2時間前から並ぶようになった。すると体の弱い老人が船室で待機、後回しということになる。船の出口前に1600人が並べるスペースなどあるはずもなく、上の階から入り口のある階へと客は船の廊下や階段を1時間以上かけてカタツムリのごとくノロノロと歩かされる。
こうして船内から船外へ出てからがまた大変だ。先に述べたように、港によっては、中心部までかなりの距離がある。
通常はシャトルバスかタクシーである。ピースボート主催のシャトルバスツアーを申し込んだ人以外はこれらを利用する。
通常はシャトルバスは複数台あるので、船内から出てくる乗客を順に収容できる。だがある時は、そのバスが一台しか段取りできていないと言う。船内で散々並び、さらに船外でシャトルバスに並ぶ…この時、不幸な人は船内、船外で3合計時間以上立って並んだのではないだろうか?旅するために来たのか、並ぶために来たのか?いずれにしろ、問題は多い。
タクシーも空港や鉄道と違い、日常的に港には来ない。しかもやっと捕まえたタクシーも先進国以外では現金しか使えない場合が多い。現地の通貨を事前に準備していない場合は、万事休すである。
Uberを使い自分で呼ぶか偶然の女神に頼るしかないと言うわけだ。
(なおピースボートの外国語教室の講師が乗客よりも先に船外に出ようとして、ピースボートのスタッフに叱られていたことも付け加えておこう。)
公平を期すなら、毎回先に降りるグループの順番を変えれば済む。あるいは飛行機のように料金により徹底的にプライオリティをつけ、下船順について客に納得させれば良い。
私の要望は少なくとも下船時に「延々と並ばせる」ことだけはやめてほしい。そんなことは運営でなんとでもなると思う。
世界遺産ケベックシティ
ケベックシティはセントローレンス川沿いにある。そしてその旧市街全体が世界遺産である。建築物単体が世界遺産になることもあるが、私のように人の生活をテーマに水彩画を描くには、町全体が文化遺産となっている方が、しっくりくる。
建物の形が特に秀でていなくとも、全体の雰囲気が気に入った構図になればいいのだ。
古い町並みがあり、大河があり、さらに旧市街は高台にあり、風景は起伏に富む。(上写真参考)
水彩画にしたくなる風景は無数にあると言っていい。こんな美しい町に住んでいる人々が実に羨ましいと思った。
この町の見どころは実に多くある。その中でも「シャトーフロントナック」を入れるとどこから見ても絵になると言っていい。
この場所で一枚スケッチをし、ついでにこのホテルのメインバーでカクテルをいただくことにした。
有名なホテルなのでその名を冠した名物カクテルはあるかとバーテンダーに聞くと、そっけなく「NO」と。ならば人気NO.1のカクテルをくれと頼むと、大きな氷の入ったグラスにバーナーで炎を吹き付けている(下写真参照)。どうやら燻す香りをつけるためらしい。凝った演出も実に絵になる。
ベースがブランデーだったようで、濃厚、スモーキー、少し甘みがある。時間をかけて少しずつ味わうのが良いようだ。
とても満足して、会計をすると、一杯が何と約4,000円だった!
オーロラ騒動!
ピースボート乗客へのアンケートによれば今回のクルーズで一番期待すものは何かと聞くと、圧倒的多数で「オーロラ!」だと言う。
その期待に応えるためだろう。夜間のオーロラ観測に備えて、外部デッキに共用部の光が漏れぬよう、船内共用部の窓ガラスに遮光フィルムを貼り、食堂のテーブルには照明が消えても食事に支障のないよう小さなテーブルランプが置かれている。
そんな時、突如船に「オーロラ専門家」なる人物が乗り込み、講演会を開いた。満員の聴衆を前に「今晩、オーロラに出会えるような気がします」と言ったらしい。
噂が噂を呼び、乗客は騒然となる。講演を聞いた妻も今晩は早く寝て、夜に備えると言う。私も圧縮袋に入っていた厚手のダウンジャケット、防寒用の帽子、ヒートテックのタイツとシャツを引っ張り出すことになった。
こうして、万全の体制で臨んだオーロラ観測初日だったが、天候はあいにくの雨模様。私は早々と見切りをつけ、寝床に入ったが、若者たちは半分宴会をしながら、朝まで起きて待っていたらしい。
この日は残念ながらオーロラは出現せず。
しかし例の専門家によれば、オーロラ帯に入るここ数日が勝負だと言う。
ピーボートも乗客の期待に応えようと必死のようだ。「オーロラ隊」メンバーを決め、徹夜で船外デッキを見回り、出現するとすぐに船内放送を流すのだと言う。
3日目だっただろうか?
「ただいま船外左舷に肉眼でオーロラが観測できます」と言うアナウンスが流れた。1,600人の乗客が一斉に屋上デッキに向かったと言っていい。船外全ての照明が消されているので、屋上は真っ暗。だが凄まじい人口密度で動くのも容易でない。カメラを構えるスペースを求めて少しずつ移動して暗闇をじっと見つめる。
はるか向こうの空にぼんやりと微かに明るい部分が見えた。カメラを向ける。私はカメラについては専門家ではない。だがオーロラを美しく撮影するにはカメラにお任せの「オート」では難しいらしい。
私の調査結果は、F値は光量最大になるように設定、ISOは大きい方がいいのだが、大きすぎると画像が荒れるので、私のカメラではここだけは「自動」が良いらしい。問題はシャッタースピードで、地上で三脚を構えるなら10秒以上が望ましい。だが船では揺れがあるのでシャッター時間が長いとブレて三脚が役に立たない。
船内に高級カメラを構えたプロらしいシンガポール人がいたので、相談すると、「8秒」がベストだと言う。
と言うわけで、そのぼんやりする方向に向けてシャッターを切った。
それが下の写真である。
何となく黄緑色に輝いている。これがオーロラだと言われてもそれほど美しいとも思えない。
この日は一応この写真を成果として休むことにした。だが相変わらず最上階食堂はオーロラ待ちの人々が朝まで騒いでいたらしい。
食堂のスタッフも大忙し。普段は夕食時を過ぎれば閑散とするはずが、0時までは、フル回転。零下の外気でカメラを構えた後の、暖かいうどんがとんでもなく美味しかったことを報告しておこう。
この日から2~3日はオーロラチャンスだと言うことで、毎日この騒動が続いたわけだが、結局再度のオーロラ放送を聞くことはなかった。
どうやら今年のオーロラは不出来だったよう…オーロラだけのためにこの旅に参加するのは再考の余地有りだ。
雪山発見! レイキャビック
オーロラ騒動の真っ只中、アイスランドの首都レイキャビックに上陸した。港に到着した瞬間、対岸に広がる雪山の美しさに圧倒されてしまった。この旅で「雪」を目にするのは初めてだ。
北極圏にあるこの国、実は「極寒の」と表現しようと思ったが、気温自体は零下を僅かに下回る程度。以前にアメリカワシントンを3月に訪れた時、マイナス13度だったことを思えば、案外と暖かい。これは「火山」と「暖流」のためらしい。
とは言っても、素手でカメラのシャッターを押すたびに、「寒い、冷たい」を連発する羽目に。なぜか妻も私も日本から手袋を持ってくることをすっかり忘れていたのだ。
レイキャビックは物価が高いことでも有名(昼食にグラスビールと簡単なつまみを1皿注文したら4000円弱だった。)だが、背に腹は変えられず、たまらず革手袋を購入。皆さんも旅の準備は抜かりなく!
実は水彩画家としては、このレイキャビックにはあまり期待していなかった。町並みはあまり歴史を感じられないし、見どころは、外観がユニークな「ハットルグリムス教会(下写真)くらい。だからほとんど下調べをしていなかった。
ところが、妻曰く世界遺産でもある、「噴き上がる間欠泉を見なければ、アイスランドに来た価値がない」らしい。
ピースボート主催の高価な当該オプショナルツアーもすでに満杯らしい。ネットが満足に使えない船内では個別に民間のツアーも申し込めず、結局当日現地の観光案内所で聞くことにした。
結果は✖️。当日ツアーはやはり空きなし。新規に企画してもらうには20万円ほどかかると言う。いくら旅先での臨時出費とはいえ、少し高すぎる。
妻には可哀想だったが結局、レイキャビックは街の散策のみとなった。
※レイキャビックの雪山は美しかった!船室で仕上げた作品はこちら→「雪山 Reykjavík」
いよいよ勝手にオーバーランド!
ピースボートには寄港地から一時下船し、国を越えて旅をし、別の寄港地で合流すると言うシステムがあるのはすでに述べたとおりである。これを「オーバランドツアー」と呼んでいる。どれも日本から直接いけるのではと思うような値段だったので、私は選択しなかった。その代わり自分で飛行機も宿泊も手配し、離脱する「勝手にオーバーランド」を企画し、メキシコで大損害を被ったのも先に述べた通りである。
だが次の寄港地グラスゴーからいよいよ本格的な「勝手にオーバーランド」が始まる。本来なら、船はグラスゴー→リバプール→ボルドーと廻る。当然港町ばかりで内陸部の都市には行けない。
だが建築に携わる私としては、せっかくここまで来たのにロンドン、パリの歴史的な町並みや有名建築を見ないわけにはいかない。
そこで、以下のような旅程を考えた。グラスゴーで一泊した後飛行機でロンドンへ。ロンドンでニ泊した後、ユーロスターでパリへ。パリでニ泊しボルドーで船に合流する。過密日程だが私にとって必要な最低限の視察はできるだろうと思った。
あとは船が予定通りついてくれることを祈るばかりである。
グラスゴーとエディンバラ
私たちは通常グラスゴーは「イギリス」の一都市だと思っている。だが実際は「the United Kingdom」、通常UKとして表示される、連合国家のひとつ、スコットランドの最大都市である。そして世界遺産エディンバラ城で有名なエディンバラはそのスコットランドの首都である。
ピースボートの船が寄港したのはグラスゴーセントラル駅から列車で1時間ほどかかるグリーノックと言う小さな港町だ。
この町には見るべきものはほとんどないので、当然乗客のほとんどがグラスゴーを目指して列車の駅目指すことになる。
この日も、例によって上陸許可が降りた瞬間、乗客のほとんどがこの小さな田舎駅に殺到した。
ところが普段は利用者が少ないのだろう。駅の窓口係員は一人のみ。
かくして駅の外の街路には、グラスゴー行きの切符を求める1,000人を超えるピーボート乗客の長蛇の列ができ、1時間に一本しかない列車は座席に空きを残したまま虚しく、発車する。
朝一番の列車に乗り、エデョンバラヘ…と言う私の計画は早々と崩れて、結局グラスゴー経由、エディンバラに到着したのは真昼だった。計画変更に慣れる…これが楽しく船旅をするコツである。
さてスコットランド1番の目玉、エディンバラ城を訪れた。だが入り口前にチケットオフィスがない。周囲にいる係員に聞くと、スマホから登録し、Eチケットを見せるのだと言う。
最近では当たり前になったシステムとはいえ、ローカルな書込みが英語表示で延々と要求される。またなぜかエラーが続出。何度も入力をやり直し、結果的に支払いの段階で私のクレジットカードが拒否されてしまった。
他の支払いで何度も使っているので、特に問題はないはずなのに、理由は不明で、対処のしようがない。
困り果て、先ほどの担当者に事情を話すと、結局歩いて5分ほどのインフォメーションでアナログチケットを買えと言う。
結局切符を購入するのに、また1時間をロスしてしまった。中途半端なデジタル化はかえって混乱を招く。なんとかしてほしいものだ。
スケジュールは狂いっぱなし。しかしながら、エディンバラは美しい。スケッチする時間がなかったので、せめてそのまま水彩画に仕上げられる構図を…と狙って写真を撮る。
「もらった!」と呟きたくなる写真が相当数手に入ったのが収穫だった。
「霧のロンドン」へ
小説や映画でお馴染みのロンドン名物は霧だ。つまりからりと晴れた秋の空はロンドンにふさわしくない…と願ったわけではないが、私が訪れた2日とも雨、曇りの天気。一日中傘を手に歩き回ることになった。だがたかが天候の良し悪しでこの町を判断してはいけない。
ロンドンの魅力は19世紀以前の歴史的な町並みの中に超現代的な建築がアクセントとなって共存することだと思っている。
一例をあげよう。実は私がこの町で一番行きたかったのは愛称「ビッグベン」。イギリスの国会議事堂である。
建物は一見するとゴシックの教会堂のよう。だが細部のディテールはゴシックよりも遥かに繊細だ。(下写真)
細部を見ようと、近づくとどうやら建物内部も見られるらしい。手荷物検査を受けた後、案内に導かれて進むと、なんとそこは本議会の傍聴席だった。
他国の人間に国政の中枢の生の議論を聴かせるとは、さすが「民主主義」を最初に実践した国だと実感した。
そして次に見たかったのが、下写真の建物。設計者はノーマンフォスター。ビッグベンとは対照的、つるりとして装飾らしい装飾はない、垂直線を強調したビッグベンに対して地面に垂直な外壁面はどこにもない。だがこの建物、決して奇抜な形態だけを狙ったのではない。方位を考え省エネルギー的に最善の形になるよう設計した結果だと言う。
もっともこの建物、当初は「ロンドン市庁舎」として紹介されており、内部も見られたようだが、現在は何故か閉鎖されている。残念だ。
この両極端な二つの建物がテムズ側の両岸に建っていて、違和感を感じない。それが寛容なロンドンっ子の気質なのか、巧みな町づくりの政策のせいなのかはわからない。とにかく日本の首都東京にはない魅力だと思う。
※ロンドンで描いた水彩画(自分では結構気に入っている絵だ)はこちら→「ビッグベン London」
「花の都」パリへ
ピースボートの乗客の大半は高齢者である。船内で伝え聞く彼らの要望は「死ぬ前に一度エッフェル塔を観たい」だと言う。
だからパリへゆくピースボートオプションツアーは当然満員。溢れた人々は自前でフランスでの寄港地ボルドーからパリへの旅を企画していたようだ。
ところがここでまたまた問題が発生する。
寄港地が突如ボルドーからル・アーブルに変更になったのだ。グラスゴーからすでに離船していた私に届いた、ピスボートからの「寄港地変更メール」によれば自然災害によりクルーズ船を受け入れられなくなったとのことだった。
私だけでなく、パリ行きを予定していた乗客は全員大慌てで、ル・アブルからの宿泊、列車(飛行機)の予約先を変更しなければならない。
私もパリからル・アーブル行きの列車を慌ててインターネットから予約する羽目になった。当然だがボルドー行きの予約済みチケット代が(またしても)ふいになってしまった。
「自然災害」が理由ではやむを得ないが、ピースボートの対応には改善の余地がある。
と言うのは、寄港地が変わる、あるいは同じ寄港地でも着岸位置が結構変更になることがあるが、離船者にはその連絡がメールで一方的に送られてくるだけなのだ。
こちらから詳細を確認するメールを送っても返事はない。なしの礫なのだ。一次離脱者に対する注意書きを読むと寄港地に関する質問は電話でしか受け付けないようになっている。海外で(先に述べたSIMの問題を含め)電話を使うことの不便さに配慮してほしいところだ。
前置きが長くなってしまった。そんなにも皆が憧れる「パリ」について報告しよう。
アールヌーボー建築を見直す
「アールヌーボー」…19世紀に流行した芸術様式で工芸やインテリアデザインに興味のある方はよくご存知だろう。「草花模様、曲線、手仕事…」などがその芸術のキーワードだ。先に紹介したアールデコは幾何学模様、工業生産を意識した洋式なのである意味好対照である。
日本ではエミール・ガレのガラス細工が特に有名で、その展示会はいつも満員だと言う。
だが実は「アールヌーボー建築」となると、実物を見た人はほとんど皆無に違いない。当然私も見たことはない。
なぜかと言うと、この芸術が流行った期間が極めて短かったことと、対象地域がこのフランス、それもパリを中心とするフランスに限られていたからだ。
結論を言おう。パリを訪れる人はぜひアールヌーボー建築を見てほしい。こんな繊細、耽美的な建築はギリシャ、ローマ、ルネサンスなどの様式建築では見られない。以下に幾つかの幾つかの写真を載せておく。じっくりとその美しさを味わってほしい。
さて「是非」見てほしいと言ったのには美しいと言うだけでなく、もう一つ理由がある。(ただし私の個人的な意見だと断っておく。)
それはこの様式が現代に復活するかもしれないと思ったからだ。
実は現地を調査していて、私が事前に調べたアールヌーボー建築によく似た新しいコピー建築と思われる建物が存在することに気がついた。
詳細デザインが「似ている」が、細かい部分に「省略」がある。おそらく石を加工したのではなく「コンクリート」で作ったためだと思われる。
つまり、アールヌーボー建築は亡んだわけではない。その建築に住み続けたいと思う愛好家がいる、いや増えているのかもしれないということだ。
さらに、アールヌーボー建築は「装飾」だけで論じられることが多いが、実は建築的にとてもよく考えられた「機能的な装飾」と言うべき一面を持っている。
下の写真は有名な地下鉄の駅だ。一見すると、草花をモチーフにした装飾過剰な構築物に思える。
だが実は通常無骨で邪魔者扱いされる軒樋、雨樋を実に巧みにデザイン処理をしている。雨水をここまで美しく処理した初めての歴史的建築物だと言っても良いと思う。
エッフェル塔、凱旋門、シャンゼリゼ通り
映画、TV、小説で幾度となく登場するこれらの観光名所、本来ならじっくりと時間をかけて見るべきだろうが、今回のパリ滞在は2泊のみなので、ちょっと手抜き観光をした。
エッフェル塔は遠くから写真のみ。幸い虹がかかっていたので、それなりに記念になった。凱旋門は一応一周して写真撮影。
そしてシャンゼリゼ通りを歩く。
参考になったのは歩道の作り方(下写真)。通常日本では歩道は「歩く」ためのものと考える。だから通行する人数でその幅を決めることになる。
だがシャンゼリゼ通りは違うようだ。彼らにとって歩道は「交流する」場なのだ。だから歩道はとんでもなく広い。歩道の真ん中にカフェがあり、そこでおしゃべりを楽しんでいる。視線の先にある凱旋門も道の両側の整った建物も道ゆく人にとってはこんな生活の小道具なのだろう。
大阪の御堂筋がこのシャンゼリゼ通りを真似たと言われるが,残念ながら「交流の場」には程遠い。大阪府知事、市長には是非頑張ってほしいと思う。
・サクレクール寺院
モンマルトルの丘の上に建つ教会であり、やはり観光名所である。20世紀に建てられたので比較的新しい。それなのに有名なのは、教会からパリ市内を見渡せる眺望、立地の良さと、モンマルトルを活動の中心とした印象派の画家たちがそのドーム状の屋根を好んで描いたためかもしれない。
地下鉄の駅から教会までの坂道がかなりきついが、現在は観光客用にケーブルカーがあるのでご心配なく。
・フランス国立図書館
この日、モンマルトルの丘を降りたあと、セーヌ川沿いを歩くことにした。まずは中心部からやや離れた、東端にある国立図書館に向かう。Googleマップによれば地下鉄の駅から歩いて数分のはずだ。だが実際に行ってみると「国立」にふさわしい立派な玄関の建物はない。広大な敷地に4本のガラスのタワーが立っているだけだ。
よく見ればタワーの間は地下広場となっており、大木が植えられてさながら森のようだ。そしてエントランスはもう一つの地下広場を降りた先にあった。
つまりセーヌ川の対岸からは、本来国立図書館が備えるべき、相応の玄関、巨大な書庫、閲覧室、資料室等の塊はほとんど見えない。
セーヌ川の景観を意識したからなのかは知らない。だがこんな回答を引き出した建築家の慧眼に恐れ入る。
と言うのは、この図書館は間違いなく市民に親しまれている。この日はかなりの強風だったが、セーヌ川に面した階段広場には市民が集い、入口の荷物検査こそ物々しいが、内部は極めて開放的だ。先の巨大な地下広場の樹林の緑と天空からの日差しは極めて快適で、ここが地盤の下にあるとはとても思えない。閲覧室、自習室はIDカードがないと入室できないようだったが、共用部の机は自由に使える。
もちろんフリーWi-Fiも使用でき、実はあまりの快適さに、このブログの原稿の一部をここで執筆させていただいた。
多くの市民が静かに、この図書館で知的な活動を楽しんでいるように見える。飲み物や軽食を提供するショップもあるが、昨今の円安のせいか値段はかなり高かった。
・セーヌ川にかかる橋
セーヌ川沿いの建物、景観を見て歩くのももちろん楽しいのだが、橋にも注目したい。理由は2つある。一つは「橋」には必ず人々の生活と密着した風景があるからだ。空と川と橋と両岸に並ぶ建物…水彩画にするにはもってこいの素材が揃うのである。
もう一つの理由は橋の素材と装飾、構造の考え方が時代によって異なり、それが橋のデザインを決めている。その個性の差を楽しむことができるからである。
・シモーヌ・ド・ボーヴォワール橋
国立図書館からセーヌ川沿いに西に歩いてすぐのところにある。目を引くのはその構造的な形態。基本的には橋の床板自体が両岸から支えられた吊構造のよう。だから橋桁は一本もない。セーヌ川を行き来する船には実に都合が良い。そしてその吊られた床板の上にアーチ状のもう一枚の床板が載っている。形態的にユニークでデザインとしても美しい。
ただし橋桁が一本も無いと言うことは、やはり積載荷重に限界があるようだ。そして床板にかなりの勾配の変化がある(写真参照)ため、車の通行には不向きなのだろう、この橋は歩行者及び自転車専用となっている。
・アルコル橋
セーヌ川の右岸(北側)とシテ島を結ぶ橋である。距離が比較的短いため、鉄骨造の単純なアーチ構造で出来ている。ただし出来たのは新古典主義全盛の18世紀である。エンジニアとは言え、無骨なH形鋼をそのまま見せるような作法はなかったのだろう。柱や梁をよく見てほしい、古典様式の装飾が鉄骨の柱や梁、手摺周りにに施されている(写真参照)。
・シャンジュ橋
三連アーチによる伝統的(?)デザインの石橋。柱脚に刻まれたNのエンブレムは「ナポレオン」を意味するとのことだ。
・ポン・ヌフ
シテ島の西端にかかる、17世紀初頭に建造された石造のアーチ橋。リズミカルなアーチが美しい。島の北側、南側の二つの橋を合わせてポン・ヌフと呼ぶ。
ポン・ヌフとは直訳すると「新しい橋」だが、実はセーヌ川にかかる現存する橋の中では最も古いとのこと。言われてみれば、アーチの形状は後世の偏平アーチではなく、オーソドックスなアーチのよう。だから橋桁の間隔は狭く船の交通には不便だが、その分丈夫で長持ちだったと言うことだろう。
・ポン・デザール
直訳すると「芸術橋」。だがそれほど「芸術的」なデザインとは思えない。単なる鉄骨造のアーチ橋である。調べてみると、名の由来は芸術の殿堂とも言える「ルーブル美術館」の前に架かる橋だったかららしい。
・アレクサンドル三世橋
19世紀に出来た装飾が華麗な橋…と事前にチェックしていたのだが、位置が悪かった。この橋はこの日、東から西へセーヌ川沿いに歩いた私の旅の終点にあたる。日没までに25km歩いた私の脚が悲鳴をあげていて、この橋までたどり着けなかったのだ。…またしても「残念!」
ポンピドゥセンター
今更言うまでもないが、世界的に有名な大建築家リチャード・ロジャース設計の美術館である。できた当初は賛否両論の大紛争があったと聞く。ご覧の通り、いまだにパリの街並みに対して異彩を放っている。外観は工場のよう。でも竜骨を思わせるような構造美はオリジナリティがある。今回は時間がなくて内部には入らず。またしても、残念。
・ルーブル美術館
エッフェル塔、凱旋門と共にパリを代表する「名物」である。展示を見るだけで3日、いや一週間はかかると言われるほどだ。当然超過密スケジュールの私に、そんな時間があるはずがない。当初から外観だけを見ようと決めていた。古めかしい建物の中庭にあるガラスのピラミッドのエントランス。歴史ある美術館の威厳を損なわず、現代的な入り口をシンボライズするこの設計アイデアは大家イオ・ミン・ペイによるもの。同じ建築に携わるものとして、素晴らしいと賞賛するほかはない。
・アラブ研究所
設計者はジャン・ヌーベル。この設計コンペで一躍有名になった。通常国際コンペを勝ち抜いた設計案はその論理的背景はさておき、形態的に風変わりなものが多い。だが上の写真のように、正面から見ると四角い普通の箱である。
では何が凄いのか。答えは窓のディテールにある。窓は様々なサイズの分割されたグリッドからなっていて、それぞれに日光調節の羽がついている(写真参照)。羽を閉じれば室内側は暗くなる。そしてその羽の形状が美しくデザインされて室内は光のアラビック模様で満たされる(らしい)。是非それを見たかったのだが、エントランス前には長蛇の列。時間の関係で諦めざるを得なかった。
・オルセー美術館
鉄道駅を改修したと言う特異な経緯、吹き抜けと一体となった展示構成、歴史的建築のモチーフを生かしつつ、空間に現代的なセンスが光る素晴らしい美術館だ。この美術館はルーブルほど大きくない。だから当初から内部も見る計画だったのだが、その判断は大正解。
建築の内部はもちろん、展示作品も自由に写真撮影して良いという。パリ市民は幸せだ!
・パリの夜景
私にとっては初めてのパリ。だが実は妻は若い頃から毎年のようにパリを訪れている。だから私の目指す場所は彼女にとっては新鮮味がなく、昼間はもっぱら別行動だった。夕食を終えた後、毎日20km以上歩き、疲れている私は早々にホテルで休みたかった。
だが彼女は少し歩きたいと言う。夜のこの通りの雰囲気がいい、エッフェル塔からレーザー光線が…、ルーブルのピラミッドは夜景が一番…など、気がつけば1時間ほど雨の中、パリの夜景を楽しむ(?)ことになった。(下写真)
皆さんも是非楽しんでいただきたい。
※パリで描いた水彩画はこちら→「ポン・ヌフ Paris」
予定外の・・・ル・アーブル
先に述べたように、ボルドー(と世界遺産サンテミリオン)行きが港の都合でキャンセルとなってしまった。仕方なく、急遽この町を調べてみる。
すると町全体が世界文化遺産に指定されているらしいことがわかった。大いに期待したのだが、行ってみるとごく普通の現代の街並み。二、三の有名建築がある程度。正直、がっかりした。
理由は文化遺産に指定された理由にある。第二次大戦で廃墟になった町を、現代的な都市計画で再建したからだという。キーワードは碁盤の目状の道路とコンクリートの建物のようだ。
だが考えてみれば、日本も終戦後、全く同じキーワードで復興を遂げた。だから私には日本にもよくあるごく平凡な地方都市にしか見えなかった。
「世界遺産」=「歴史的町並み」と捉えている人にはこの町はおすすめできない。ご注意を。だが、面白い建物もある。2つ挙げておこう。
・サン=ジョゼフ教会
教会といえば通常石造である。だがこの教会はコンクリートで出来ている。当時としては画期的だったようだ。
空間も画期的だ。柱のない中央の吹き抜け空間のど真ん中から高層タワーが立ち上がっている。梁に曲げ荷重がかけられない石造ではあり得ない空間だ。
残念なのは外壁の開口面積が小さく、教会の内部空間に必須のステンドグラスの面積が非常に少ないことだ。空間のダイナミックさに比して光のドラマが今ひとつだ。
だが現在のようにコンピュータで力学的な解析ができるわけではない。新しい構造に対してエンジニアとして、安心できる相応の壁量を確保したためと理解したい。
・ル・ヴォルカン
図書館、映画館などが含まれる市民センター的な施設。有名なブラジル出身の建築家、オスカーニューマイヤの設計である。「ヴォルカン」とはフランス語で火山のこと。その特異な形状からこの愛称がついたらしい。
外観も面白いが内部空間も素敵だ。あいにく、映画館は閉鎖されていて見られなかったが、図書館の吹き抜けホールはトップライトからの光が降り注ぎ、とても快適だ。
だがよく見ると、あちこちに立ち入り禁止のロープが張ってある。さらにその区画内にバケツが置かれている。
この状況、建築関係者ならお馴染みの光景だ。そう、「雨漏り」だ。直接的にはトップライトのガラス周囲のシールが切れたためだろう。だが真の原因は雨を受けるガラス面にほとんど勾配が付いていないためだ。デザインを優先したのだろうが、設計技術面からは完全に失敗だ。先人にはそれなりの苦労があったのだと解釈したい。
再び乗船、ポルトガルへ
グラスゴーからの「勝手にオーバーランド」を終え、ル・アーブルで帰船した。わずか5泊6日の旅だったが、突然寄港地が変わったり、飛行機の発着時刻が遅れたり、物価高に驚いたりと、それなりに緊張していたせいだろう。自分の船室の扉を開けた時、我が家に帰った時のような安堵感を覚えてしまった。「狭い」船室にあれほど文句を言っていたのに、人間とはまことに勝手な生き物である。
さて船は大西洋を南下してポルトガルのリスボンへ向かうのだが、実はこの途中でちょっとした異変があった。この日、午前0時に時計の針を1時間戻したのである。
皆さんも海外旅行で現地時間に時計を合わせた経験がおありだろう。船旅では寄港地に近くなるにつれて、毎日1時間ずつ時計を合わせるようだ。生活リズムを徐々に現地時間に合わせる工夫なのだろう。
今回のように東廻りの航路では、時計を度々、1時間進めてきた。つまり、午前0時になったら時計を午前1時に合わせる。翌日の起床が午前7時だとすると、いつもの7時間睡眠が6時間となり、その日は1時間睡眠が減ることになる。
言わば東廻りの航路は日々の時間を損するコースなのだ。
ところが、この日だけ時間を戻すという。「1時間得をした」わけだ。
つまりフランスル・アーブルからポルトガルのリスボンへのコースはこの旅で初めて、西に戻るコースだったというわけだ。
さて実はピースボートの予定表ではリスボンに朝寄港し、夜出航することになっている。つまり日帰り観光しか出来ない。だが私はどうしてもシントラに足を伸ばしたかった。
そこで、リスボンで一泊、翌日シントラを巡った後、リスボンのホテルに戻りもう一泊する。そして翌日早朝、船の次の寄港地であるバルセロナに飛行機で向かうことにした。
この計画のの良い点は単にシントラを観光できるだけではない。船が着く前日にバルセロナに入れることだ。つまり本来ならやはり1日しか見られないバルセロナを二日かけて見ることができることである。
二泊三日のミニオーバランドツアーにしては見どころ満載なのである。
さて、こうしてたどり着いたリスボン、シントラの2都市を紹介しておこう。
リスボン
リスボンには夜明け前に港に着いた。ありがたいことに御覧のように、港は町のすぐ近く。夜が明けて下船許可が下りると、まっすぐにこの日泊まるホテルに直行。荷物を預かってもらいすぐに町歩きを始めた。
リスボンの交通手段はバス、路面電車、地下鉄、郊外列車といろいろある。
観光客へのおすすめは交通系ICカード「リスボアカード」を購入すること。市内交通がどれでも乗り放題の上、シントラへの往復列車料金も含んでいる。つまり私にとっても非常にお得なカードなのだ。
まず向かったのは郊外にある、世界遺産の「ジェローニモス修道院」(上写真)。本当はいかにも観光客向けの外観をした電車に乗って見たかったが、Google検索するとこの時はバスが一番早かった。
30分ほどで到着。建物はとんでもなく長大だ。ご覧のようにカメラに全貌が収まらない。建物の細部は至る所に繊細な彫刻が施されている。外壁の白い石肌は彫刻の影を優しく映し、全体がとても上品で気品がある。内部も公開されており、華麗な内装が有名らしい。だが、午前のそれほど遅くない時刻に訪れたにも関わらず、とんでもなく長蛇の列。入場するまでにどう見ても1時間はかかりそう。
しかも建物正面の一部が改修中で足場がかかり、スケッチはもちろん、いい写真も取れそうにない。
そこで、郊外のもう一つの目玉、ベレンの塔に向かう(下写真)。歩けない距離ではないが、時間の節約のため、再びバスに乗る。
着いたバス停から、7-8分歩き、広い公園を突っ切ると海に向かって目指す塔が建っている。16世紀、ポルトガルが世界一の海洋国家であった頃の監視塔跡である。基本的に要塞なので、ジェロニモス修道院のような華麗な装飾はない。それでも要所の監視塔や開口周りの装飾は波打ち際に佇む立地と相まって独特の雰囲気を醸し出している。こちらは十分に絵になりそうだ。
2件の世界遺産を見た後は、リスボン市内を歩く。私の本来の目的はこちらである(下写真)。
この町歩きが実に楽しい。市内の建物の大半は大小を問わず、クラシカルな様式建築。随所に石を使いながら、外壁はカラフルな色に塗られるか、装飾的なタイルも貼られている。
加えて市内は坂道だらけ。小道を抜けると、丘や海が思いもしなかった位置と角度で現れる。水彩画を描くのにはもってこいの街なのだ。
いずれ私の個展で画廊に飾られる作品を期待していただきたい。
そして魅力的な建物で囲まれた市内の坂道を縦横無尽に走るのが、開放感たっぷりの路面電車である。
せっかく買った乗り放題のリスボアカードを使って電車からの風景を楽しみたかったのだが、私の目的は絵となる素敵な構図を探すこと。好きな場所で止まれない乗り物に乗っていては目的は叶わない。路面電車での、のんびり観光は次回(?)にお預けだ。
シントラ
翌日、早朝からシントラを目指す。町全体が世界遺産に指定されているが、お目当ての建物は3つある。レガレイラ宮殿、ペーナ宮殿、ムーアの城塞である。この3つの施設はかなり離れているので、循環バスを使うか、タクシーを1日契約するしかない。残念ながら両者ともリスボアカードは使えない。
とりあえず、レガレイラ宮殿まで20分歩き、後はバスを待つことにした。
レガレイラ宮殿
山間の道を歩いていると突然、灰色の重厚な建物が見えてくる。窓や建物頂部は華麗な装飾で覆われる。外観は中世の城のようにも、ゴシックの教会のようにも見える。
何度も所有者が変わったらしいが、基本的には貴族の住宅のようだ。だから床、壁、天井の内装も凝っている。
そして庭がとんでもなく広い。見どころは井戸。アーチが連続する螺旋階段を降りてゆくと井戸の水面までたどり着く。通路の先に灯りが見え、洞窟を歩いて外に出る。遊び心満載の設計だ。
ペーナ宮殿
岩山の頂上にいくつもの塔が張り付いたような不思議な形態。しかも壁は赤や黄色で塗られてとてもカラフルな建物だ。もちろん世界遺産に指定されている。
レガレイラ宮殿と違い、こちらはれっきとした国王の宮殿。だがその意匠はレガレイラ宮殿よりも、統一性がない。国王の個人的な趣味が色濃く反映されているようだ。
私が訪れたときは、あいにくの大雨。霧が濃く、観光写真で見られるような華麗な印象は抱かなかった。
また周囲の森林が深く、建物の全景が納まるような構図は目にすることはできなかった。実は水彩画作品にしようと一番意気込んで向かったのがこのペーナ宮殿だったが、その成果は得られなかったと言っていい。残念だ。
ムーアの城址跡
南ヨーロッパはかつてイスラム勢力に支配されていた。有名な「レコンキスタ」とはその勢力を追い払う運動だ。当時ポルトガルを支配していたのが「ムーア人」らしい。つまり海洋国家ポルトガルの絶頂期にはすでにこの城は廃墟になっていた。しかも建物というよりは、単なる「壁」の連続であるため、特にイスラム的な凝った表現は感じられない。
だが保証しよう。ここは間違いなく「絵になる」。
なぜなら自然の岩山の素材、形状、地形を生かし、峰に沿って築かれた人口の建造物が主役となる構図は普通の街並みには絶対に見られない、ドラマチックな構図になるに違いないからだ。あなたにも是非見ることをおすすめしたい。
こうしてリスボン、シントラで充実した二日間を過ごしたが、「勝手にオーバーランド」の旅はゆっくり静養などしていられない。明日の朝は5時前に起床、リスボン空港へ向かうのだ。
※シントラで描いた水彩画はこちら→「ムーアの遺跡 Sintra」
バルセロナへ
この日のバルセロナ行き飛行機は9:10発。国際線なので2時間前に空港に着く必要がある。グーグルマップで調べるとホテルからは空港バスを利用するのが便利そうだった。
6時発のバスに遅れまいと早足でバス停に行ったが誰もいない。バス停には「空港行き」の表示もない。おかしいと思ったものの、しばらくすると、アメリカ人らしき女性二人私たちの後ろに並んだ。聞くと彼女たちも空港へ行くのだという。少し安心したものの、予定時間になってもやはりバスは来ない。
流石におかしいと感じ始めた頃、目の前を「空港行きバス」が全く止まる気配なく通り越して行った。どうやらバス停の位置が変わったらしい。Googleマップの情報が古かったのだ。周囲の人に空港行きのバス停の位置を聞いたが、私の英語が通じない。
バスをあきらめようかと思ったが早朝のため、流しのタクシーもいない。困り果てていたところに、一人の老人が、空港へ行くなら、地下鉄がいいと教えてくれた。幸い乗り場はすぐ近く。念のためグーグルでルートをチェックすると確かに空港に行けそうだ。
こうして予定スケジュールからかなり遅れてしまったが、何とかリスボン空港に到着。早速チェックインカウンターを探すが、見当たらない。
スタッフは自動チェックイン機の周りに数人が立っているだけ。人件費削減のためか、どうやらチェックイン機を使えということらしい。だが機会に予約番号を入れても反応がない。何度試してもだめ。たまらず近くのスタッフに相談すると、なんとターミナルが違うという。
しかもターミナルはかなり離れた位置にあるらしくバスで移動する必要があるらしい。搭乗時刻が迫る。キャリーを引きながら全力疾走で目的の航空会社カウンターへたどり着いた。
冷や汗をかきながら、全ての手続きを済ませた時、出発時刻の30分前だった。搭乗ゲートをくぐり、無事自分の座席に着いた時の安堵感は忘れられない。
だがまだまだトラブルは続く。無事リスボンから飛び立ったものの、よくわからないトラブルがあったようでバルセロナ空港への到着時刻は結局30分以上遅れた。
なぜそんなに到着時刻を気にしたかというと、リスボン空港と予約したホテルの交通の便が悪そうだったので、今回はホテルまでのタクシーをブッキングコムで予約していたからだ。
万一ドライバーが先に帰ってしまうと、大変だと心配し、またまた全力疾走で税関出口へ向かう。
ドライバーは税関を通り抜ければその出口前で私の名前札を掲げて待っていてくれるはずだった。だが出口前の集団にはいない。どうするか?
下手に空港外を探し回れば、行き違いになるかもしれない。
思案した結果、妻を税関出口付近に残し、私は探索範囲を広げることにした。
結果的には数十メートル離れたところにドライバーはいた。プラカードに「Yoshine Kato」の文字を見つけた時、喜んだ私は思わず近寄ってドライバーに握手を求めたほどだ。
早速タクシーに乗り込み、ホテルまで「Please, hurry up!」
えっ?なぜ、空港に無事着いたのにこんなに急ぐのかって?
実はインターネットでこの日訪れるグエル邸のチケットを予約していて、その時間が14:00 だったのだ。予定通りに古都が進めば、ホテルに荷物を預けて、ゆっくり食事をしてから行けるはずだった。だが結局ホテルに着いたのは13:30を回っていた。グエル邸まで、またまた駆け足をする羽目になってしまった。
改めて旅好きの皆さんに基本のアドバイスしよう。「海外旅行では時間は(たっぷり)余裕を持って!」そうでないよこの日の私のように心臓に悪い事件に何度も会うことになる。
・グエル邸
建築を志す人なら、ガウディの名を知らない人はいないだろう。私も学生時代に知り、一度自分の目で作品を見てみたいと思っていた。やっとその願いが叶う時が来たわけだ。
さてこのグエル邸、ガウディの作品としては比較的初期の作品であるためか、外観は他の作品に比べれば、大人しい(上写真参照)。ガウディらしいアーチの開口はあるものの、それなりに平凡な矩形の窓が並んでいる。
だが内部のデザインは不思議な空間の連続だった。まずは吹き抜けの中庭に面した地下の広場へ。円柱、角柱からのドーム状に広がる曲面の天井と壁。経験したことのない空間だった(下写真参照)。
興奮冷めやらぬまま、階段を上がり吹き抜けのホールへ移動する。ガウディ独特の先細りアーチ(カテナリーアーチという)とアラビックな意匠のステンドグラスが部屋を異国情緒で満たす(下写真)。
そのまま吹き抜けのリビングルームに入ると天井は星空に輝く月、いやシンボリックな太陽をイメージしたのだろうか?
気がつくと私だけではない。見学者全員がおーという感嘆の声を漏らしている。しかもこれが個人邸か?・・・・壁面にはパイプオルガンが聳え、荘厳な曲が流れている(さすがにこれは録音による演出だったが・・・)。19世紀末のスペイン貴族の生活が如何に豊かであったかと賞賛せざるを得ない。
階段の手すりや開口部の周りの装飾も半端ではない。この部分だけでデザインにどれだけ時間をかけたのかと多少の設計経験のある者としては余計な心配までしたくなる。
そして最後は屋上。普通の設計者ならば、メインの居室にあれだけ精力を使えば、普段は人のこない屋上の設計は手を抜きたくなるもの。
だがガウディは違うのだ。
煙突、排気塔、天窓と行った屋上の要素にまで徹底的にデザインを施している。樹木のような、キノコのような形態に鮮やかなモザイクタイルを張り、見る人の目を楽しませてくれる。サービス精神旺盛な建築家でもあったのだ。
・カサ・バトリョ
グエル邸を見学したのち、カサ・バトリョに向かった。予約時間まであと30分ある。この日初めてゆっくり観光気分で街歩きをした。正直、バルセロナの街は美しいと思う。カサバトリョに向かうメイン道路は広く中央がグリーンベルトになっていてカフェもある。市民の憩いの場になっているようだ。道の両側の建物はおそらく19世紀から20世紀初頭に建てられたようだ。クラシカルな様式を取り入れた中層の建物が多い。低層部はほとんど商業施設で人の賑わいもある。
20分ほど街歩きを楽しんだだろうか。
少し先に見えるはずの目的地カサ・バトリョの前の歩道はとても広い。パリのシャンゼリゼ並みだ。そしてどういうわけかその辺りの人口密度が異様に高い。
よく見ると皆カメラを目の前の建物に向けている。そう、カサ・バトリョを見るために来た人ばかりだったのだ。ガウディ人気に改めて驚かされた。バルセロナ観光はまさにガウディで支えられていると感じた。
さて先のグエル邸の外観は大人しいと書いた。だがおよそ20年後に建てられたこの建物の外観は同じ建築家によるとは思えないほどの変貌を遂げている。外壁、柱、窓、扉、バルコニーなど建築のエレメントのデザインが過去の歴史様式とは全く異質のものなのだ。直角、直線はもちろん、正円さえもほとんどない。不規則な生命体の蠢く姿を表現しているかのようである。
インテリアデザインも期待を裏切らない。
渦巻く銀河をイメージしたような天井、白くうねる漆喰壁に埋められた純金の模様は生命の源である分裂する細胞を思い起こさせる(上写真)。
当然そんな曲面の壁に取り着くドアや窓も3次曲面とならざる得ない。要求される施工精度を達成する職人の神業には驚くほかはない(上写真)。
聞けば石、煉瓦、木、金属、左官、家具などあらゆる工事でこの当時の最高級の職人とコラボしたらしい。作品の出来栄えに対する恐るべき執念だ。
グエル邸は個人住宅だが、この建物は集合住宅であるため共用の吹き抜け階段、廊下がある。こちらもデザインに妥協はなく、ユニークな空間を生み出している。(上写真)
そして屋上。吸排気塔はもはや奇怪なオブジェと言ってもいいだろう。
見学コースの最後は1階にあるガウディ土産売場。なかなか商魂逞しい。
ちょうど旅行の現地資料を納めるクリアファイルを買おうかと思ったが、コストパフォーマンスが悪すぎる。高い!
ガウディ作品の出来栄えとお土産は別と割り切り、外へ出た。時間に追われまくった1日が終了。明日はいよいよサグラダファミリアだ。
・サグラダファミリア
ガウディの作品を見学するなら事前にインターネットで予約すべきである。なぜならどこもとても混む。チケットを買うのに並んでいては時間がもったいないからだ。
ただ問題はどこも時間指定があること。すでに述べたように船によるツアーには予定変更がつきもの。だからなるべくギリギリに予約するのが良い。
だが実はこのサグラダファミリアだけは混雑ぶりが凄まじいと聞いていたので、数ヶ月前から、この日の朝一番9:00に予約を取っていた。
念のため、30分前に訪れ、まずは外部を一周、見どころを撮影する。地下鉄を出た正面は建物の東側に当たる。ご覧のように朝日に照らされとても美しい。その圧倒的な存在感の前には、塔の一部にかかっている工事の足場もそれほど気にならない。
ここで外観の現在の工事状況を述べておこう。地下鉄から出て正面になる東面が「生誕の門」のファサード(上左写真)。北側が祭壇のあるゾーン(上中央写真)。生誕の門の反対側、つまり西側にあるのが「受難の門」(上右写真)。現在この3つのゾーンはほぼ完成しており、観光客が間近に見ることができる。生誕の門はそれだけで世界遺産に認定されている。
そして残る南側が「栄光のファサード」と呼ばれる本来のエントランス部分で、現在は工事中で立ち入ることができない。
9時になり、いよいよ生誕の門から入場。この建物の凄さの一つは塔を見上げた時の建物全体の構成美だけでなく、手に触れる部分の細部に至る彫刻までが美しいことだ。門扉に施された植物紋様の中に昆虫の彫刻までがリアルに表現されているのには驚かされた(上写真)。
内部空間は実に「豊か」だ。こんな曖昧な表現をするのは床や壁や柱や天井や・・・それらのデザインを逐一説明したところで、それは単なる分析にしかならない。
分析だけでは私の感情は表現できないのだ。それら全てのイメージが一体となって、私に感情の昂りを強制するのだ。とりあえず私の観た「豊かな」空間の写真のごく一部を掲載する。皆さんもぜひ自分でこの空間の奥深さを読み取ってほしい。
いやたぶん写真で読み取れるはずはないのかもしれない。ならば、あなたにはぜひ訪れてみてほしい。きっと感じるに違いない。個人の力でここまで独創的なデザインができることを。
ちなみに私はこのサグラダファミリをじっくり見るために、船の寄港日の前日に入国し、朝一番にここを訪れたのだが、大正解だった。
というのはピースボートには例によって超高価なオプショナル「ガウディ日帰りツァー」が準備されていた。
船に合流後、ツアーに参加した人の話を聞くと、サグラダファミリアはなんと外観を見ただけだという。企画者の苦労は察するが、あの内部を見ないでどうする!と言いたい。個人的にはそんなツアーに参加しなくて本当に良かったと思っている。
サグラダファミリが普通の教会と違う点を一つだけ説明しておこう。
通常キリスト教会は祭壇のある方を東に向けて建てる。したがって信者が座るゾーン(身廊)は右手が南、左手が北となる。この場合北側のステンドグラスに直射日光は通常あたらない。もちろん安定した北側採光を利用して宗教的モチーフを描くのに意味があるのかもしれない。
ところがサグラダファミリアは祭壇が北(北東)を向いている。つまり身廊の右側から朝日が差し、左側からは夕陽が差し込む。そしてステンドグラスは東側が赤系、西側が青系とはっきり色使いが分かれている。しかも全て幾何学模様であり、具体的な物語性は一切ない。
つまりガウディは午前は赤で、午後は青で聖堂を染めるという時刻の変化を設計するから意図を持っていたのだろうと思う。なんと豊かな発想力だろうか(上写真)。
・超モダンな現代建築へ
バルセロナは基本的には19世紀の町並みを大切にしている。だが超モダンな建築もいくつかある。そのうちの一つ、トーレ・アグバールを紹介しよう(下写真)。
設計者はジャン・ヌーベル。先に紹介したパリのアラブ世界研究所の設計者でもある。
アラブ世界研究所は外観は四角い箱だった。だがこちらは正反対。直線の壁はどこにも無く葉巻のような形状。よく見ると外壁は全面ガラスのルーバーでできている。角度調整が大変だと思ったが、どうやらビルの熱負荷を最低に抑えるように太陽の方向、角度により自動調整されるらしい。
なぜこんな形なのかと誰しもが思うだろう。ウィキペディアによればバルセロナ近郊の奇岩の山をモチーフにした、あるいはビルオーナーが水道会社なので噴水をイメージしたからだとか。
ちなみにロンドンにも似た形のビルがある。今回の旅では時間がなく遠くから写真に収めただけに終わったビルだ。(下写真中央のビル)
こちらはノーマン・フォスターの設計でその形状はやはりウィキペディアによれば付近のビル風を減少させるためだとか。
超モダンな形状を作るにはそれなりに皆を納得させる理由が必要なのだろう。
・サンパウ病院
バルセロナにはガウディの他にもう一人、モンタネールという、有名な建築家がいる。その代表作がサンパウ病院だ。今回の予定ではサンパウ病院の内部も見学したかった。ご覧の様にユニークな外観デザインもさることながら敷地内の病院施設が全て地下で繋がっているという、病院の機能とデザインを両立させた設計になっていると聞いたからだ。
だが実はこのサンパウ病院、少し離れたところに、巨大な新病院があり、私は間違えてそちらへ行ってしまった。おかしいと気づき、古い病院の写真を見せ、場所を教えてもらったものの、結局目的地に辿り着くまで30分以上ロスしてしまった。しかも内部を見学するにはチケットカウンターの行列に並ばねばならない。
この後ガウディの代表作の一つ「グエル公園」の見学予約時刻が迫っていることを考慮して、泣く泣く内部見学は諦めた。
・グエル公園
「公園」というからには誰でも入れる、無料のスペースと思うだろう。だが残念ながら有料だ。とんでもなく多くの人が訪れる空間を整備する維持費が必要ということだろう。
ここは建築ではない。内外部の空間区別がないからだ。ただ人が憩う空間としてガウディらしいデザインの建築的な仕掛けがあちこちにある。特徴的なのは空中の道と広場だろう。
道は基本的には列柱とアーチで支えられている。だが柱は岩が寄り添って空宙に伸びる、樹木の様な形状をしている。道の両脇にはカップルが並んで休めるアルコーブがデザインされている。
広場は海に向かって開き、眺望は抜群だ。外周部のベンチはモザイクタイルで美しく装飾されている。ガウディの凄さは、このベンチが「屋外仕様」であることを前提にデザインされているということだ。
ベンチに降った雨がすぐに広場外部に排水される様に勾配が考えられている。さらに排水で外側の壁が汚れない様にガウディデザインのユニークな軒樋が広場を囲んでいる。
建築だけでなく、土木的な知見もあったということだ。
・カサミラ
これもガウディの代表作。外観はグエル邸と違い、歴史的様式を踏襲した気配は全くない。全面曲線で覆われた外壁。連想できるとすればパリで見たアール・ヌーボー建築だろうか。
だがアールヌーボーは窓、扉、手すりといったパーツのデザインに興味が向いている。こちらは建物全体がうねるイメージであり、結果として窓周りに曲線のボリュームがくっついているという印象だ。
下から見上げるとよくわかる。階ごとに建物の外形線が違う。まるで波が次々に押し寄せるイメージと言ったらいいだろうか。
実はカサミラの内部見学予約をすべきかかなり悩んだ。最終の受付時間に間に合うか微妙だったからだ。結局今回は外観だけ。残念!
・日が暮れるまでの建築散歩
カサミラの斜向かいに日本人の有名建築家が設計した建物がある。カサミラのオマージュと言っていい。だがこちらは現代建築うねる様な外壁はそっくりだが、似ているのは表皮の金属パネルの波形工夫だけ。右側の内部は普通の現代建築だった。
日暮までにあと2つ建物を見なければいけない。またまた駆け足で移動する。次に向かったのはカタルーニャ音楽堂。設計はサンパウ病院と同じモンタネール。音楽堂だけあって外観はこちらの方が華麗、装飾的だ。
内部の共用部は誰でも見られると聞いていたが、この日はコンサートがある様で、すでにシャットアウト。外観よりもさらに華麗と言われるインテリアデザインが見たかった。残念。
さて、バルセロナでは近代以降の建物ばかりを見てきた。だが当然だがもっと古い歴史的建築もある。
サンタ・エウラリア大聖堂である。典型的なゴシック建築だ。内部も有名なので見たかったが、すでに閉館時刻を過ぎていた。
この地区は歴史的な建物を美術館、博物館として利用していて、とても趣がある。すでに暗闇が迫っており、内部も含めじっくりと見られなかったのが残念だ。
中身の濃い、やや消火不良の気味のバルセロナともお別れとホテルに戻りかけた時、楽しげな音楽と共に巨大人形のパレードが始まった。
聞けば、年一度の大きなお祭りらしい。
大はしゃぎの妻に付き合いしばらく祭りを楽しんだあと、ホテルへ。泊まるわけではない。港に停泊中のピースボートに戻るためのタクシーを予約してもらっていたのだ。
船に戻ったのは21時頃だっただろうか。時間に追われて過ごした2泊3日の小旅行。疲れ果ててすぐに眠りについたのはいうまでもない。
※バルセロナでの水彩作品はこちら→「グエル公園 Barcelona」
イタリアからギリシャへオーバーランド?
絵を描くのに最もふさわしい国は?と問われれば、私はイタリア!と答える。19世紀の近代の町並みを保っている都市はかなりある。国によりその個性も様々で面白い。
だが、古代、中世、ルネサンスの建物が同時に残っている都市が多いのはやはりイタリアだろう。
そしてもう一つ私が行ってみたいと思っていた国がギリシャだ。こちらは絵を描きたいというより、建築を志した者がパルテノン神殿を見ていないなんてあり得ないという半ば脅迫観念によるものだ。
さらに言えば、世界遺産人気抜群のサントリーニ島。地中海を航行してこの島に寄らないわけにはいかない。
ところが航海スケジュールではローマこそ2日の滞在が可能だが、ギリシャはアテネに近い港ピレウスに朝に寄港しその日の夜出航だ。
私の希望を満足させるにはまたしても「勝手にオーバーランド」が必要だった。
実はローマはすでに二度訪れ、絵を描いている。そこで今回はローマの北にある中世の小都市オルビエートに一泊2日の旅をし、ローマにとって返し一拍、翌朝飛行機でアテネに向かう。その日アテネ市内を観光し、翌日飛行機でサントリーニ島へ向かう。この島には、イアとティラ二つの街がありそれぞれは車やバスでしか行けないので両方をじっくり見るには一泊する必要がある。そこで島で一泊しアテネに戻り、夜の出港前までに船に戻る。そんな計画を立てた。
以下にまたまた忙しいこの旅の顛末を報告しよう。
チビタベッキアからオルビエートへ
この港からローマへは列車で1時間ほどでゆける。しかも早朝入港、翌日夜出航と言う珍しく余裕のあるスケジュール。だから大部分の乗客はローマでの一泊観光を予定しているようだった。
しかし私はすで述べたようにローマを訪れているので、オルビエートに行くことに決めていた。だからイタリアの移動のチケットは全てインターネットで事前予約済み。
何の心配も要らないはずだった。当初入港予定時刻は7:00。港町のチビタベッキア駅発9:16、ローマ・テルミニ駅着10:03待ち時間19分で11:37分にオルビエートに着く。
だから当日午後早々に観光ができるはずだった。だが現実は考えた通りにゆかない。以前にテルミニ駅は利用したことがあるので、19分の乗り換え時間は十二分だと考えていた。
ところが、私が降りた場所と乗り換えるべきホームは、偶然なのだが、広いテルミニ駅の端と端だった。キャリーバッグを引きずり、かなりの早足で移動したが、指定の乗り換えホームに到着した時、発車時刻を一分過ぎていた。
だが何故かホームにいないはずの列車が留まっている。しかも電光掲示板の行き先表示が何故か、消えている。結論を言えば、オルビエート行き列車の出発が数十分遅れ、しかもホームも変更になっていた。
その列車も途中でかなりの遅れが発生、結局オルビエートに着いたのは、15時を回っていた。3時間近く遅れたわけだ。
こんなことはイタリアでは日常茶飯事だと言う。皆さんも計画には余裕を持って!
・オルビエート大聖堂
この町で一番有名な建物。観光客のほとんどが必ずここを訪れる。
イタリアでは代表的なゴシック様式の建物だが、外壁の横ストライプはフランスやドイツには見られない独特の雰囲気がある。以前に見たシエナの大聖堂にもこんなストライプがあったと思い調べると同じ建築家が関わっていたらしい。やはり建築家の存在は大きい。
すでに夕刻出会ったあったため、初日は教会とその周りの街並みをじっくりと見ることに専念。翌日からのハードスケジュールに備え早々に床に着いた。
・城砦都市を見上げる
オルビエートは丘の上に建つ城塞都市である。その特徴を絵にしようと思えば、街の外、空中から、この街を見なければならない。
そこで翌日早朝、朝食前にホテルを出て町の周辺を歩き回った。自然の岩山を利用し、所々に建てられた物見塔や門が丘の上に聳り立つ姿はいかにも中世の都市らしい。ただ残念のはこの風景が見上げるだけの構図で、城塞と内部の建物を同時に一体で見られないことだ。
実は泊まったホテルのロビーに私が望む構図そのものの写真が飾ってあった。従業員にこの写真はどこで取れるかと聞いたが、「そんな場所はない」という。どうやらドローンを使って撮影したもののようだ。
・いよいよ町の中へ、
狙いは水彩画にぴったりの構図を探すこと。本当はじっくりと、時間を忘れて、腰を据えて現地で絵を描きたいところだが、そんな時間の余裕はないことはわかっていたので、今回は愛用のミラーレス一眼カメラを手に町中を歩き回る。
石畳の細い道。角を曲がると現れる三叉路、突き当たりには教会、上空にかかるアーチの向こうに下界の風景が霞んで見える・・・。
歩くたびに絵になる光景が現れる。本当に来てよかった。さすがはイタリアと。改めて感動した次第である。
さて、たっぷりと中世の雰囲気に浸った後は、古代の遺跡が待っている。
※オルビエートでの水彩作品はこちら→「城塞都市 Orvieto」
ギリシャ・アテネへ
さてこの日、予約していた夕方の列車に乗り、夜ローマに着く。時刻も遅かったので駅近くでピザとワインを買い、ホテルの部屋で食事を済ませた。ピザもワインも大満足。私は充実した街歩きが出来たあとは騒がしいレストランよりも部屋で静かに酒を飲むのが好きである。
実はこの日から妻とは別行動。一緒だったらこんな食事許されなかっただろうな・・・。
ホテルは翌朝の飛行機に乗ることを考え、テルミナ駅のすぐ近く。朝起きて直行列車に乗り空港へ。今回は列車は時間通りに空港に到着し、飛行機も30分ほどの遅れでアテネに到着した。
アクロポリスへ
アクロポリスを訪れる観光客は多い。チケットカウンターに並ぶのを避けるために当然事前にインターネット予約をしていた。14:00入場のチケットだ。私は14:00から入場と勝手に決め込んでいたが、よく見ると14:00過ぎると入場できないと買いてある。
完全に私のチョンボである。アクロポリスの入場口に着いたのは15:30頃だっただろうか?
半分絶望的な気持ちで電子チケットを見せると、当然ながらエラー。入場係の女性は「時間が過ぎているので入れない」「入りたいならもう一度チケットカウンターで入場券を買え」という。
数千円の損失だが、ここまで来てパルテノンを見ずには帰れない。仕方がないのでチケットカウンターの列の最後尾に並ぶ。
30分後、私の番が来た。念のため、失効したチケットを見せるとこのチケットでもう一度入場口に行けという。「さっき入れないと言われたが・・」と説明すると、今から入場口に電話をしておくから、安心しなさいとのこと。
優しい紳士に感謝し、入場口にゆくと今度はOK。やれやれ、今回もすんなりとはいかないようだ。
さてお目当てのパルテノン神殿そのもはあちこちに足場がかかり、あちこち工事中。はっきり言ってこの状態を魅力的な水彩画に仕上げる自信は私にはない。その昔歴史の地形で習ったドリス式、イオニア式、コリンと式の柱をそれぞれ実際に見られたのは感慨深かった。何よりもこの巨大な石を組み上げ、神殿建築を芸術的な域にまで高めたのは驚きだ。建設時期は紀元前5世紀、日本はまだ弥生時代だったのだから。
もう一つ忘れてならないのは、このアクロポリスの丘を利用して作られた円形劇場。
アッティコス劇場は観客席の正面に列柱とアーチで支えられた障壁が立ち上がっている。こちらはパルテノン神殿よりずっと新しく、紀元後1世紀ローマ時代に建設されたようだ。ローマにあるコロッセウムに比べるとやや石積みが荒っぽい。だがそれも古代を想うにはむしろ都合が良い。ちなみにこの劇場では今でも野外コンサートが行われるそうだ。
アクロポリスは夜景も美しいと聞いている。本来ならこの日の湯食もホテルの部屋で適当に摂るつもりだったが、屋上テラスで食事ができるとの看板を発見、そのレストランで夜景を見ながら食事をした。パルテノン神殿全体が見られる絶景とは言い難かったが、それなりに満足、良い経験だったと思っている。
翌日は事前予約したアクロポリスと同じチケットで」入場できるゼウス神殿、ローマンアゴラ、ハドリアヌスの図書館を見たあと、フィラパポス記念碑に向かった。この記念碑が目当てではない。実はこの場所がアクロポリス全体を見るのに最適な場所だからだ。
当然だがアクロポリスの上からでは遺跡の一つ一つを見上げることはできるが丘全体を見ることはできない。昨晩のように丘の下にあるレストランのテラスから見上げても、外周部にある遺跡が見えるだけである。
この記念碑のある丘の頂上からアクロポリスまでは直線距離にして1kmなさそうだ。標高ははほぼ同じ。だから遺跡の全貌が見られるといいうわけだ。この記念碑そのものはそれほど有名でないので、観光客はそれほど多くない。だがもしあなたがアテネを訪れることがあるなら、ぜひこの丘に登って見てほしい。
※水彩画作品はこちら→「アッテコス音楽堂 Athens」
サントリーニ島
アテネからこの島へ行く交通手段はフェリーか飛行機だが、時間のない私は当然飛行機を選択。国内線なので税関前で延々と並ぶ必要もない。
だからこの日の昼頃アテネ空港を出て45分でサントリーニ空港に到着できた。島内は公共交通機関がバスくらいしかないので、事前にブッキングコムで空港からホテルまでの他アクシーを予約しておいた。
今回はすんなりとドライバーを発見、イアのホテルまでの道のりも順調だった。道路沿いにも名物の白い家が点々と見える。途中でこのドライバーに質問した。
「この島の建物は何故皆白いのか」と。躊躇せず彼は答えた。
「美しいからだ。皆が同じ白だから美しい。」
・・・素晴らしい。美しい街を作るための真実に違いない。
イアの町並み
こうしてイアのホテルに到着。早速チェックイン。驚いたことにホテルにエントランス空間とロビーがない。入り口はホテルの名前が書いてあるアーチのある白い門を潜るだけ。書類のサインは小さな事務室の前のテラスの白いテーブルで行う。
テーブル上には南国らしいウェルカムドリンク。言ってみれば、ロビーの壁は光る海と階段状に続く建物の真っ白な壁面。天井は青い空だ。実に快適なロビー空間である(上写真参照)。
チェックインを終え、早速絵になる風景を探し求め歩き始めた。と言っても平坦な道は尾根沿いの道のみ。尾根を下るには海岸まで全て細い階段やスロープを使わねばならない。
起伏があることは絵を描くには面白い構図になりやすいということ。歩くたびに絵になる風景が現れる。不安定な足場の上でカメラのシャッターを立て続けに切り続ける羽目になったのだ(下写真参照)。
夕暮れが近づく。
このイアには名所がある。ヨーロッパで一番美しい(?)夕暮れが見られる展望台だ。私も行ってみた。日没までまだ1時間以上あるのに既に相当数の観光客がカメラを手に押し寄せている。
その状態だけ確認し、早々にその場所を後にした。
えっ、何故夕陽を撮影しないかって?
理由は簡単だ。このサントリーニ島の魅力はエーゲ海に沈む夕陽よりも、夕日に染まる町の姿にあると思ったからだ。ひょっとすると白い外壁も外界の変化を最も正直に映してくれるからではないかとさえ思ったほどである。
だから陽が沈むまで写真を撮りまくった。その瞬間をいい絵にできるはずと思いたい(下写真参照)。
サントリーニ島のホテルについて少し触れておこう。ロビー空間は外部だと言うことは先に記した。同様に共用廊下も全て海がみえる外部だ。そして各客室は独立した一軒家であり、それぞれに海に向いたテラスがある。リゾート気分が満喫できると言うわけだ。
だがここで一つ問題がある。部屋の空調だ。共用部がないのでセントラル空調が出来ない。つまり各室単独でエアコンの室外機が必要でそれは海に面したテラスに置くことになる。
そしてこの室外機は一般的に既製品で外観はデザイン出来ない。また室外機へのホース状の配管が外壁沿いに露出する。はっきり言って不細工なのだ。
だが世界遺産として海からこの街を撮った写真には各家の室外機のセットがずらりと並ぶ図は見たことがない。
何故か?実は工夫があったのだ。下写真をみてほしい。室外機への配管も、室外機自身も白い漆喰で覆ってしまったのだ。
こんなことは日本では出来ない。何故かと言うと漆喰は湿気の差で伸縮する。配管を漆喰で覆っても、すぐにひび割れて落下してしまうだろう。
雨のほとんど降らないこの島だから可能な工夫なのだ。
ティラの町並み
翌日、もう一つの有名な町「ティラ」に向かう。フロント小屋でタクシーを呼んでくれるように頼んだ。しばらくすると男性が現れて持ってタクシー乗り場まで私のキャリーバッグを運んでくれた。このままタクシーに乗るのかと思いきや、彼は「ティラへはバスで行くのか?」と私に尋ねたのだ。
何のことはない。彼はポーターで荷物を運んだだけ、ホテルはタクシーは頼んでくれてなかったのだ。。キャリーを運ぶだけでをポーターを頼むはずがないだろとホテルの担当者に腹が立ったが、急峻な崖沿いに荷物を運ぶこともままある島では日常なのだろう。意図を伝えきれなかった私の英語力不足が根本の原因なのだからと諦めた。
だがタクシー乗場にタクシーが来る気配はない。かと言って、また坂道を登り降りしてホテルまで戻るのも馬鹿らしい。
ふと気がつくと対面のスペースにバスが停まっていた。最初は観光バスかと思ったが、車掌らしき男性が乗客に案内をしている。彼に尋ねると、ティラ行きのバスでまもなく発車だと言う。
「今日はついている!」時間の遅れに悩まされ続けた身としては、こんな些細な幸運にも感謝するようになるのだ。
さてティラに到着。
イアは島の北端。だから岬に立てば、朝日も夕陽も楽しめる。だがティラは島の西側。つまり私が到着した時刻ではご覧のように町に陽は当たらず、陰に沈んでいる。
だがここでも白い外壁の効果が生きている。陽に照らされた輝くばかりの純白はないが、海と空をの色を反射するのだろう町全体が青みを帯びて目に映る。斜面に密集する住居のユニークな形も落ち着いた色合いの中ではむしろ快い。
そして陽が高くなると海の青を背景に丘の斜面が白い町で覆われ、美しい対比を見せてくれる。改めてあのタクシーの運転手の言葉を思い出す。
「みんな白だから美しい」と。
※そしてもちろん、絵のタイトルはこれ!→「白い町 Santorini」
帰船
この日の夜、船はアテネの港ピレウスを出港する。もし遅刻すると船は構わず出港すると契約書に書いてある。
本来ならティラでじっくりとスケッチをしたかったのだが、まだティラにいる。いつまたトラブルが起きて、予定が大幅に狂うかもしれない。
と言うわけで、予定よりも少し早め、昼頃に空港バスに乗ることにした。
搭乗時間の2時間半前に空港に着いたのはいいのだが、サントリーニ空港は地方空港。時間を潰せる、レストランも土産店も無く、セルフの喫茶コーナーがあるだけ。
時間を潰すのに苦労したが、おかげで遅れていたこのブログの原稿が少し進んだことはありがたかった。
飛行機は順調にアテネ空港に到着。だが時間帯のせいなのか、空港から市内への直行列車が無い。途中駅で降ろされ、30分ほど待ったが、目的地までの列車がさっぱり来ない。
さすがにちょっと心配になる。
このままでは駅に着くのは19時半くらい。駅から港までは、タクシーが捕まらなければ、歩きしか無く、グーグルマップによると45分かかる。つまり到着は20:15分。帰船、チェックインの制限時刻は21:00まで。ぎりぎりだ。
そんな時、オルビエートで分かれ、別行動していた妻からラインメールが入る。19時半頃、彼女が泊まった駅近くのホテルが港まで車で送ってくれるらしい。私も同乗できるよう交渉してくれたという。
45分歩く必要がなくなったと大感謝!持つべきものは妻である。
トルコからエジプトへ
こうして無事船に合流できた。次の寄港地はイスタンブールそしてエジプトのポートサイドである。予定では憧れのイスタンブールには朝到着、その日の夜出航だ。
だがそれでは満足な取材は出来ない。そしてエジプトにはポートサイドというスエズ運河の入り口となる港町にやはり早朝について、深夜出港だという。ポートサイドからカイロへはバスで片道2時間半が目処だという。つまりピラミッドを日帰りで見るのは極めて困難なのだ。
そこでまたまた「勝手にオーバーランド」を計画することになる。イスタンブールに寄港したら、その日から離船し、市内に一泊する。翌日もじっくり観光し、夕方飛行機でカイロに向かう。そして夜カイロのホテルに宿泊し、翌日から二日間カイロを視察する。
つまり何もしなければ日帰りしかできなかった両都市をイスタンブールは一泊二日、カイロは二泊三日できると言う訳だ。
イスタンブール
こうしてイスタンブールに到着した。
ピースボートの乗客のかなりの数が例によって高価な市内観光オプショナルツアーを申し込んだようだった。だから上陸するとすぐアヤソフィアに向かう。1000人に近い乗客が入り口前に予約もなく一斉に並ぶ。もちろん他にも世界中から見物客が押し寄せているので列はすぐに数百メートルとなる。
その行列を横目に、私はボスフォラス海峡クルーズに向かった。まずは海から見たアヤソフィアと旧市街の全貌が見たかったからだ。
ボスフォラス海峡クルーズ
チケットは事前にインターネットで予約した。待合せはアヤソフィア前の広場、黄色い傘をさした人のもとに集まれとのことだった。ところが時間になっても黄色い傘は現れない。置き去りにされたのかとも思ったが、かなり早めに来ていたのでそんなはずはない。・・・結局、黄色い傘の遅刻だった。
そして乗船。
急いで海が見える右舷の先端近い席を確保した。見晴らしは抜群だ。カメラを構え、良い構図が現れたら何枚でも写真を撮るつもりだった。
だが見える風景が意外に遠い。今ひとつクリアな風景が撮影できない。もっと岸に近寄ってほしいと思ったが、たぶん復路では逆に岸に寄ってくれるだろうと軽く考えていた。
一時間以上海峡を公開し、Uターンを始めた。ところが、復路でもやはり岸辺から遠い。たまらず船内を歩き回りいい風景は無いかと探し回った。
すると左舷側はとても岸に近い。これなら写真になるとシャッターを押しかけたが、よく見ると往路で望遠レンズで写真を撮影した風景ばかり。
何のことはない。ボスフォラス海峡は左側通行だったのだ(多分・・・!)。
私の(数少ない?)大失敗だった。残念!
トプカプ宮殿とブルーモスク
岸に戻ってから、有名なトプカプ宮殿、ブルーモスクを視察。アヤソフィアは空いているであろう翌朝一番に行くことにした。
トプカプ宮殿は有料。王の所有物だった宝物が展示してある。
ブルーモスクはアヤソフィアほど有名ではないが、内部は十二分に美しい。「ブルー」の文字は内部のブルー系のステンドグラスの色に由来するらしい。
海外でカメラが破損したら・・・
この日期待した海峡からの写真が今ひとつだったのは先に述べた通り。だが悪いことは続くもの。ホテルで机上に置いたカメラを床に落としてしまった。レンズユニットが破損。シャッターを押しても反応しなくなってしまった。
カメラがなくては、取材に来た意味がない。すぐにフロントにゆきホテルマンに「SONY」のレンズが買えるカメラ店は近所にあるか?」と聞いた。
すると嬉しいことにあるという。場所を聞き翌朝一番にそのカメラ店に向かった。
たどり着いたその店は開店前でまだ開いていなかった。
だが気づくと、この町には「SONY」「NICON」と看板を掲げた店が結構ある。こんなことはヨーロッパの町にはなかった。日本とトルコの友好に感謝しつつ、時間が勿体無いので、開いているカメラ店に飛び込み、事情を話すと、すぐにぴったりのレンズが出てきた。動作チェックをしても問題なし。日本で買うよりも高かったが、この際贅沢は言えない。即決で新レンズを購入した。
トルコの伝統的町並み
カメラ購入で思ったよりも手間取り、アヤソフィアについた時は「朝一番」ではなかった。当然入り口にはすでに長蛇の列ができていた。この列に並ぶと相当に時間をロスしそうである。
そこで空いているであろう昼食時に並ぶことにし、トルコの伝統的町並みが残るという住宅街へ向かった。ボスフォラス海峡を渡り旧市街の反対側にある。海峡にかかる橋は多くない。だからかなりの大回りとなり、タクシーで40分ほどかかった。
だが、悪くない。とてもいい雰囲気の街である、住宅は3階建てが多い。外壁はカラフルで長屋上に街路に沿ってぎっしり建っている。しかも各住宅には個性がある。特に窓や玄関扉周りの彫りや金物デザインは凝っている。ヨーロッパの様式の真似ではなく、確かに「トルコ風」を感じる。
古くなって取り壊し寸前の住宅もあったが、是非「トルコ風」を守って町並みを維持してほしいものだ。
いよいよアヤソフィア!
そろそろ昼。アヤソフィアに戻る時刻だ。だが、周囲にタクシーはいない。
Googleマップで調べるとバスを乗り継ぐのが早いらしい。指示のままにバスに乗り、海峡に面したバス停に降りた。だが向こう岸に渡る橋などどこにも無い。改めてマップを見ると海峡を渡る点線表示が記されている。
地下鉄があったのか!」行きに40分かかった工程がわずか10分足らずで到着してしまった。
そして念願のアヤソフィアの列に並ぼうと思った瞬間、なぜか突然列が消えた。どうやら礼拝の時間が来たらしい。
ついていないと思ったが、宗教上の理由なので仕方がない。なお、アヤソフィアもブルーモスクも内部見学は無料である。
礼拝も終わり、いよいよアヤソフィアに入場!
間近で見ると、千数100年の歴史を経た建物だけあって痛みが激しい。さらにキリスト教、イスラム教両者によって使われ方が変化したのだろう。意図的に破壊修復された痕跡があちこちにある。
だが私が見たかった礼拝場は文句なし。圧巻だ(上写真参照)。
柱のない空間に直径30メートルのドーム天井浮いている。しかもコンクリートのシェル構造ではなく石積みなのだ。それらが濃密なデザインの連続するアーチと柱の上に載っている。ドームの開口から入る自然光と空中に浮く花びらのようなリング状の照明の組み合わせも美しい。こんな建物が千数百年前、日本の飛鳥時代以前にその原型が出来たという。
驚く他はない。
※イスタンブールを描くならやはりこれ!→「アヤソフィア Istanbul」
猫の天国?
イスタンブールの街を歩いていて、気がついたことがある。猫が異常に多いのである。
ある時は駅のホームのベンチの真ん中に乗客に混じって居眠りをしていた。大胆だ。乗客もい猫の存在をまったく気にしない。
日本では往来で時々犬小屋を見かけるが、こちらでは「猫小屋」を見かけた。入り口が猫の形に切り抜かれていたので間違いないだろう。
よく見ると私の泊まったホテルにもいた。朝から、ロビーの扉前にずっと座りフロントに出入りする客を見送っている。
スーパーに買い物に行くと、お得用キャットフードが入り口の付近に山積みされている。
寝るところにも、食べ物にも不自由なし。住民皆が世話してくれる。イスタンブールは猫にとっては天国のような町である。もしあなたが猫好きならさらにこの町が好きになるだろう。
さらば、イスタンブール!
さて、この日の夕方カイロに向かわねばならない。それまでにイェニージャーミー、スレイマンモスクを取材する。こちらは特に混雑もなく無事終了。幸い両施設ともホテルから近かったので、予約しておいた空港行きタクシーの予約時間30分前に到着。
いつもこうありたいものだ。
イスタンブール空港
イスタンブールにはピースボートの船で入国したので、どんな空港なのか知らなかった。着いてみてびっくり。素晴らしく、現代的、デザインもユニーク、美しい空港だった。
調べてみると国際設計コンペで設計者が選ばれ、2019年に完成したとのこと。一見の価値ありだ。
エジプト カイロ
正直に言おう。私が過去訪れた中で最低の町だった。
理由はまず第一に人の住む空間全てにおいて不潔であること。食べ物に蝿が集っているという視覚的な不快さだけではない。建物も道路もゴミだらけ。一時的に誰かが落としたと言う次元ではない。捨てられたゴミが腐り、異臭を放ち、それを大量の野良犬が漁っている。ピラミッド周辺には馬やラクダが道を歩いているが、糞をまき散らし、清掃する仕組みもないらしい。悪臭が漂っている。
生ゴミだけではない。日本では建設工事などで出される「産業廃棄物」は厳しく管理、監視されているから、一般には誰も注目していないが、カイロでは、汚泥、コンクリートガラ、薬物汚染物などが私有地はもちろん、公道にも放置されたままだ。危険なこと極まりない。
そして、その公道には、車線を無視した、無数のバイク、トゥクトゥクが意味もなくクラクションを鳴らし続け、ボディの凹んだ車の横をすり抜ける。
そんな社会では人々の心も荒むに違いない。周りの人のことなど気にする様子もなく、常に大声で喋りまくる…。
不潔さと騒音に閉口した私は当初のまる2日を町の観光に当てるというスケジュールを、実質一日に変更。翌朝一番にピースボートの船に逃げ帰ったのである。
私は政治と宗教についての意見はブログでは述べない主義だが、ここまで酷い街をみると、政治の責任であると考えざるを得ない。(日本人は幸せだ!)
エジプトの人々の政治、社会の変革を望みたい。
ギザのピラミッドとスフィンクス
エジプトの政治に文句をつけた私だが、エジプト文明についてはやはり脱帽だ。4000年以上前と言う想像しがたい時間を超えて、巨大なピラミッドやスフィンクスが今に残っていると言う事実には感動せざるを得ない。その原因が素材感なのか、スケール感なのか、それらが文化として成立していることへの畏敬の念なのか、分からない。とにかくその感覚は近くで現物を見ないと伝わらないと確信している。TVや写真では完全に役不足であること間違いない。皆さんにも是非現地を訪れてほしいと思う。
なお、私は自分で企画した「勝手にオーバーランド」のおかげで、本来船がエジプトに到着する前日にじっくりギザのピラミッドを見ることができた。
だがピースボート主催のオプショナルツァー「ピラミッド見学ツァー(料金は35,000円)」は日帰りだ。パンフレットにはバスで片道3時間半かかると記載されている。
日程的に成り立つのかと危惧していたのだが、参加した人に後日談を聞くと、やはり悲惨な状態だったようだ。
参加したのは数100人。つまり相当数のバスが時間差をつけて出発する。港からカイロまでの道が渋滞で到着が遅れ、肝心のピラミッドを見る時間は殆どなかったという。
気の毒だったのは最も遅く出発したバスの乗客。何とピラミッドとスフィンクスがある敷地内に入る時間もなく、入り口近くでピラミッドを遠くから眺めるだけだったらしい。さらに乗客が憤っていたのは、そんなに時間がひっ迫しているのに、契約している土産物屋にはきっちり40分ほど滞在したという。
参加者の怒りは半端ではなかったと推察する。オプショナルツァーに参加する人は事前に十分な下調べと、最悪の場合の覚悟が必要だということらしい。これからピースボートに乗ろうという方は参考にすべきだろう。
ポートサイド
ピースボートの船が寄港する町である。
私はカイロを早々と逃げ出したので、深夜出航するのに、その日の昼前に港に着いてしまった。このまま帰船するのも勿体無い。かといってこの町もカイロ同様不潔で車の騒音がうるさい。
そこでこの町で一番高そうなホテルに避難、ゆっくりと昼食を取ることにした。
大正解!敷地が広いので道路の騒音は全く聞こえない。静かで落ち着いた空間である。
だが本来クルーズ船が停泊するリゾート地なので、もっと多くの観光客で賑わっているべきだと思うが、ロビーは照明もほとんど消されて、閑散としている。
どうやら「荒れたエジプト」に愛想をつかしたのは私だけではないようだ。
そんなエジプトとはいえ、高級ホテルの食事のメニューは文句なし。エジプトを訪れようと思っている人はホテル代をケチってはいけないと確信している。(物価はヨーロッパに比べると格段に安いので安心していい)
スエズ運河
あっという間に通り過ぎてしまった。
距離が短かかったというわけではない。「運河」を通る儀式はすでにパナマ運河で経験していたし、デッキに出て見られる風景はほとんど単調な砂漠のみ。
上写真の左上にクルーズ船が見える。私たちと逆方向に向かう水路のようだ。そう、運河は一方通行なのである。
紅海からインド洋へ
スエズ運河を抜けて紅海へ入る。
とても静かだ。波はほとんどない。
だがこの数日前、イスラエルとアラブ過激派との間に戦闘が勃発。船内でも不安視する声が出ていた。
不安は的中。船長からアナウンスが流れる。
「本日より、非常に危険な海域を航海します。夜間に攻撃を受ける可能性がありますので、日没後は船室に閉じ籠り、カーテンを閉め、枕元の照明を除き部屋の明かりを消してください」
「只今より非常時避難演習を行います・・・皆さん、直ちに客室に避難してください。乗務員は・・・!」
共用部の窓は黒いシートで塞がれ、オープンデッキには外部からの侵入に備え全周有刺鉄線が張り巡らされた。よく見れば明らかに軍艦とわかる船が並走している。聞けば自衛隊の護衛艦だという。
「税金を払っていてよかった・・・」と真面目に思ったものである。
インド洋からコロンボへ
船内イベント
さて次の寄港地スリランカのコロンボまでは一週間ほどある。落ち着いて絵が描けると考えていたが、思い通りにはいかないもの。というのはピースボートには、乗客を退屈させないイベントが毎日のようにある。
そして各活動の集大成と言われる「運動会」「発表会」がこのインド洋公開中に開かれるのだ。
先に述べたように私は唯一「社交ダンス」に参加していた。面白さを感じ始めていたのは事実だが、特にダンスを極めるつもりもない。
絵を描く片手間に・・・というつもりだったのが、講師を始めとして周りの盛り上がり方が半端ではない。
発表会直前はいつの間にか食前、食後に欠かさず練習をする羽目になってしまったのだ。
そしてそれほど時間をかけたにもかかわらず、本番で演技を失敗。私の努力は水泡に帰した。
コロンボへ
この旅で初のアジア都市である。今までは、キリスト教、イスラム教の国であったが、やっと私たちに馴染み深い仏教の国にやってきたわけだ。
スケジュールは例によって朝入港、夜出港。遠出をする余裕はない。
よって取り合えず、市内の有名な仏教寺院を巡ろうと考えていた。電車や地下鉄はない。だから移動手段は基本的にタクシー、トゥクトゥクだ。
ただし港に待っている運転手は通常の倍以上をふっかける悪徳業者だという情報を事前に得ていたので、しばらく歩いてから流しのトゥクトゥクを拾った。
だがやはり相場より高そうだ。妻が値切ったが最低料金だと言い張るので、仕方なく乗った。
ところがどうやらドライバーとして新人だったらしい、ろくに道を知らず、グーグルマップを片手に、右か?左か?と私たちに聞いてくる始末。
実は帰りにもトゥクトゥクを利用したが、ホテルから呼んでもらったトゥクトゥクは行きの半額だった。
似たような経験はインドネシア、ベトナムでもある。当然のような観光客へのたかり体質は同じアジア人としてちょっと残念に感じた。
仏教寺院をめぐる
最初に訪れたのが「ガンガラーマ寺院」。外国人観光客で溢れかえっていた。人気の観光地なのだろう。
だが個人的には正直なところ、奇妙な寺としか感じなかった。日本の寺とはまったく傾向が違う。信者には叱られそうだが敢えていえば新興宗教の寺のようだ。
内部の金色に輝く仏像が整然と並ぶ様もありがたいというよりも威圧感がある。心落ち着く宗教空間とは程遠い。絵を描きたいと思う雰囲気もなく、早々に引き上げた。
次に向かったのは「シーマ・マラカヤ寺院」。こちらは木造の柱梁を見せる造りで日本の寺院と共通項がある。瓦の形も日本風だ(上左写真)。
違うのは信仰心の厚さだろうか。というのは、どの寺院にもかず多くの金色の仏像が安置されている。しかも外部にも並べられており、どの仏像も美しく手入れされている。
ちなみに子こコロンボの年間平均降雨雨量は2,200mm程度。日本の平均が1,800mm程度。つまり日本より雨が多く、雨ざらしの仏像はあっという間に汚れて真っ黒になるはずなのだ。ところが大部分の仏像はピカピカのままなのだ。気になったのでよく見ると、寺院の敷地内で中学生、高校生としか思えない子たちが、一生懸命セメント袋を運んでいた。どうやら寺の仕事に奉仕しているようだ。この仏像たちもきっと彼らに毎日磨いてもらっているに違いない。
コロンボは寺院ばかりの街ではない。ご覧のように超近代的な建物も多くある。中には設計者の遊び心なのか、仏像の色に合わせたのかわからないが、外壁が金色に輝くビルもあった。ご覧のように信仰心と近代化がこの国発展を支えているのかもしれない。
シナモン・グランドホテル
この日の昼食場所は妻にお任せ。
スリランカカレーが人気のホテルのレストランに行くという。別館のレストランが妻のお目当てだったようだが、あいにくランチはやっていないという。仕方なく本館のレスロアンでビュッフェ形式のランチをいただくことにした。
大正解!一般的はにビュッフェ形式の食事は味が落ちる。だがこのホテルのレストランは素晴らしい。私が過去に経験したホテルの中でも最高級の味だった。おすすめの数々のカレーはもちろん、フランス、イタリアなど西欧各国料理、デザートはもちろん、和食の刺身までとても美味しかった。
このブログでは食べ物の記事はほとんど書かないのだが、敢えて記しておく。コロンボに行く予定のある方にはこのホテルを特におすすめしておこう。
ジャミ・ウル・アルファー・モスク
スリランカは仏教徒が7割と圧倒的に多いのだがイスラム教徒も数パーセントいるとのこと。その代表的な寺院が「ジャミ・ウル・アルファー・モスク」である。このモスクは人が密集する商業地区の狭い道に面して建っている(写真左)。
イスタンブールの大きなモスクとは趣が異なるが、馬蹄形アーチやボーダー模様、その他幾何学模様のイスラムらしい装飾があちこちに施され、街中で異彩を放っている。
幸い礼拝が終わったようで、入場を許された。待合所には礼拝の服装などについて奇妙な日本語が記されている。(写真中央)内部はパティオになっており、信者が思い思いの時間を過ごしているようだった。
そろそろ帰船時間だ。幸いこの寺院から港までは地図で見るとそれほど遠くない。アジアらしい喧噪のなかを急ぎ足で歩む。ついでに残った小銭を露店で使い切る。
さらば、コロンボ!
マレーシア ランカウイ島へ
船はコロンボを出航して次の寄港地「ランカウイ島」へ向かう。私はマレーシアのこの島はまったく知らなかったが、近年観光地として、政府が売り出そうとしているようだ。
だが文化的、歴史的な施設は無く、はっきり言えば免税品狙いの買い物とビーチでの海水浴しかすることはないようだ。
実はこれまでハワイ、ジャマイカなど海水浴のチャンスは何度かあったのだが、建築と水彩画をテーマとして旅する私としては、ビーチでのレジャーは後回しにせざるを得なかった。
ただこの旅も残りわずか、一応世界一周したのに、一度も泳がなかったと言うのも悔いが残る。
と言うわけで、一応ビーチの写真を載せておく。
ハワイやマイアミと比べると観光客は少なく、のんびりできる。特に島の北側のビーチはご覧のように、ほとんど海水浴客はおらず、海岸独占状態で泳げる(上の写真)。
ただ海はそれほど美しくない。石垣島の白砂とエメラルドグリーンの海の方が綺麗だったと言っておこう。
取材旅行としての収穫は貸切タクシーのドライバーがとても理解が早く、私の希望をすぐに察してくれたことだ。
例えば私はこの国の伝統的建築に興味があるので、島内移動中にそんな建物があれば、案内してほしいと伝えると、地元の集落、保存された昔の民家などを案内してくれた(下写真)。
話題も豊富だ。マレーシアでは大半がイスラム教徒だが、キリスト教徒、仏教徒もおり、仲良く共存しているとか、島の気候、労働者の暮らしについてなど、数時間車内で会話したが、退屈することはなかった。
私の拙い英語を理解してくれたこと、聞き取れるスピードで話してくれたことに感謝したい。
言い忘れたが、基本的にこの島には流しのタクシーはいないそうだ。港で降りると貸切専用タクシーだけが並んでいる。島にはバスも列車もないので仕方がない。値段も彼ら(組合のようなものがあって統一値段である)のいうがままである。
シンガポールから勝手にオーバーランド!
ランカウイ島で海水浴を楽しんだ後、船はシンガポールと香港に寄港し、神戸に戻ってこの旅は終わる予定だった。
だが実は私はその両都市ともかつて絵を描くために行ったことがある。しかも両方ともそれほど魅力的ではなく、そこで絵を描きたいとは思わなかった。つまり旅の最後としてはあまりに尻すぼみなのだ。
そこで、日本を出る直前、急遽最後のオーバーランドを企画した。
まずシンガポールには早朝入港する。その日は、午前中シンガポールを観光し、午後から飛行機でクアラルンプールに向かう。飛行時間は1時間10分程度なので、当日夕方と翌日丸一日観光に充てられる。
そしてその翌早朝、飛行機でタイ、バンコクに向かう。その日はバンコクを翌日はアユタヤを観光する。
一泊して翌日午後香港に向かい船と合流する。すると翌日午前中だけは香港も観光できると言うわけだ。
クアラルンプール2泊、バンコクに2泊の4泊の間にシンガポール→マレーシア→タイ→香港と4カ国を旅する効率的な旅程に大いに満足していた。その充実度を順に報告していこう。
・シンガポール
シンガポールには早朝到着した。
比較的旅慣れている妻もシンガポールは行ったことがないらしい。それならと、行きたいところを聞くと「植物園!」と言う。
そこでそのままGoogleで調べると「シンガポール、ボタニックガーデン」の記事が出た。歴史ある有名な施設と書いてある。
早速、地下鉄「ボタニックガーデン」駅で降りて無事入場。見学時間はまだ十分あると一安心。ところが妻の様子がおかしい。しきりにスマホの画面を覗き込んでいる。
「ここじゃない!」
そう、妻が行きたかったのは、もう一つの植物園「ガーデンズ・バイ・ザ・ベイ 」だったのだ。再び地下鉄に飛び乗り、今度は「ベイ・フロントステーション」駅へ。そして無事入場(下写真)
大急ぎで施設を巡り、妻の満足度が十分なのを確認した上で、タクシーでチャンギ空港へ向かう。無事午後のクアラルンプール行きの便に乗ることができた。
こうして過密日程の第一ラウンドを無事終了したわけだが、私の旅が(珍しく)スムーズに進んだのには訳がある。
それはシンガポールの「デジタル化」が極めて進んでいることと、各種インフラのあり方がよく考えられていることだ。
例えばシンガポールは入国の際にインターネットからの入国申請を義務付けている。デジタルが苦手なお年寄りには不評らしいが、そのおかげで、入出国時のアナログによる関連カードの記入は一切不要だ。入国目的などの質問も不要、一人当たりのチェック時間が極めて短い。
手荷物検査も延々と並ぶのが通常だが、こちらも極めて短時間で済んだ。
実はガーデンから空港への移動時間を心配していた。距離的にかなりあり、列車を使うと1時間以上かかるとグーグルマップは言っている。
だがここを訪れる外国の観光客用にインフラとそれを支えるシステムが完璧だ。まず市内にはほとんどない「タクシー乗場」があるので、タクシーが途切れることがほとんどない。
さらに驚くことに、乗車してから空港ターミナルの発着所まで一度も車にブレーキがかかることがなかった。つまり空港への専用、あるいはそれに近い高速道路が整備されていると言うことだ。
そして市内を走る地下鉄の改札もデジタル化が進んでいる。シンガポールでは日本のように「〇〇駅までの片道切符」が買えない。
基本は日本のsuicaやicocaのようなプリペイドの交通カードを使用する。だから観光客用の窓口はその使い方のやりとりでいつも混み合っている。
だが、よく聞くと窓口に並ぶ必要は全くなかった。なんとクレジットカードを改札に直接かざすだけで料金が支払われる仕組みだったのだ。
そうニューヨークの地下鉄と同じだ。日本はもちろんイギリス、フランスなどヨーロッパでは使えなかったシステムがこのシンガポールでは構築されていた。
日本のデジタル化の遅れを改めて感じさせられた。
ここはどこ?
シンガポール発の飛行機は予定時間ぴったり。順調な「勝手にオーバーランド」の滑り出し・・・のはずだった。
ところが、そろそろ到着かと思ったが何のアナウンスもない。
しばらくして、飛行機が高度を落とし始めた。その前にごく短い早口の現地語(たぶん英語ではなかった)でアナウンスがあったらしい。
無事着陸したので、降りる準備を始めると隣の婦人が英語で聞いてくる。「あなたたちはどこに行くの?」「?(当然)クアラルンプールですけど・・・」
じゃあ、まだ降りられないわ。ここはペナンよ」
何とせっかくシンガポールまで南下したのにクアラルンプールランカウイ島のすぐ近くまで戻ってしまったのだ。
隣の婦人も最初は事態が分からなかったようだが、後ろの席の現地の友人らしき人から詳細を教えられたらしい。
それにしても驚いたのは、そんなトラブルがあったのに、誰も騒ぎ出さない。CAに問い詰める人もいない。皆じっと飛行機が動き出すのを待っている。日本なら騒ぎ出す客が必ずいると思うのだが、マレーシア人(?)はおとなしい、いや人間ができているというべきか。
結局機内で1時間近く待たされただろうか、再び離陸、クアラルンプールについたのは夜だった。本当はこの日のうちに有名なペトロナスタワーの展望台に上がるつもりだったのだが、閉館時間時間を大幅にオーバー。
全ての観光は明日だ。
クアラルンプール街歩き
マレーシアは日本人の移住希望先NO1だと言う。市内を歩いていて「なるほど」と実感した。
まず町が美しい。クアラルンプールの主要街路では全くゴミなど見当たらない。
そして人が皆穏やかだ。エジプトや中国のように町中で大声でがなりたてる人はほとんどいない。イスラム教徒が85%だが仏教徒、ヒンズー教徒も同等に、当然のように暮らしていると言う。寛容な国のようだ。
さらに英語が通じる人の割合が多い。ホテルはもちろん、レストラン、タクシー、地元の土産物店でもほぼ英語が通ずる。教育レベルの高さが窺われる。
そして、これが人気の最大の理由かもしれないが、何といっても物価が安い。今回私たちが泊まったロンドンの中心街の窓なし部屋の部屋代とクアラルンプールのプール、ジムが利用できる5つ星ホテルの部屋代にそれほどの差がなかったと言えばその程度がわかっていただけるだろう。
・ペトロナスタワー
この日真っ先に向かった建物だ。下から見上げる地上452mは確かに高い。だが残念なことにお目当ての展望台は定休日だった。残念!
なお、このビルの低層部は巨大なショッピングセンターになっている。通常巨大であればあるほど、開業後しばらくすると上階に行くほど、閉鎖される店が多くなるのだが、どの階も買い物客で賑わっているようだった。この国の急速な近代化がうまく行っていることを物語っているようだ。
イスラム建築
ペトロナスタワーとその周辺の現代的、インターナショナルなビル街を見る限りここがイスラム教徒の国だとはまったく思えない。
だがあちこち歩いてみると、その関連施設はかなりある。
マスジッド・ジャメ
クアラルンプール最古のイスラム教の寺院。といっても建設は20世紀初頭。イスタンブールのモスクとは雰囲気がかなり違う。ドームの形状は正面左右対称の姿を見てインドのタジマハールを思い出してしまったほどだ。
外壁はレンガ積み。その積み方は「イギリス式)だ。マレーシアはイギリスの植民地であったことが影響しているのだろう。私が行った時、礼拝堂では熱心な信者がお参りをしていた。また男性は敷地内に通常の姿で立ち入ることができるが、女性は頭部を部のですっぽり覆わなくてはいけない。ここはイスタンブールのモスクと同じルールである。
国立モスク(マスジッド・ネガラ)
こちらはさらに新しい。1965年の竣工だという。国立だけあって大きく、メンテナンスも良い。内部はイスラム教徒でない私たちでも入れるが、女性の服装にはとても厳しい。妻は頭を覆う大きなスカーフを巻いて入場しようとしたが、許されず、頭から脚までをすっぽりと覆うローブを渡され、それをきちんと着るまで、入場を許されなかった。
内部はイスラム教のモチーフである幾何学模様があちこちにあるものの、馬蹄形アーチやドームなどはなく直線的で斬新なデザインである。礼拝堂も柱の装飾などはイスラミックだが、屋根とステンドグラスは三角形がモチーフとなっている。
ダヤブミ・コンプレックス
ガイドブックにも載っていない、一見すると近代的な高層ビル。だが、明らかにその平面形状は正方形と45度振った正方形を重ねたイスラム模様になっている。近づくと外壁の格子模様がやはり八つ星(八芒星)をモチーフとしていた。
・ムルデカ118タワー
高さ679メートル。ペトロナスタワーよりも高いビル。高さはドバイの「ブルジュ・ハリファ」についで世界二番目だそうだ。
残念がらまだ工事中で内部は見られず。
市内にはイギリス統治時代の建物群が相当残っており、面白い。そのいくつか紹介しよう。
・スルタン・アブドゥル・サマドビル
旧大英帝国連邦事務局、現在はマレーシアの最高裁判所。19世紀末に建設されたのにメンテナンスがよいのだろう、とても美しい。設計はイギリス人だがアーチやドームなど各所にイスラムのモチーフが使用されている。外壁はレンガでもちろんイギリス積みである。
・鉄道公社ビル
イスラムの馬蹄形アーチが目を惹くが、設計者はイギリス人だという。用途は事務所で宗教施設ではない。支配地の住民の宗教に敬意を払ったというところだろうか。
ただし下層階から上層階にかけて同じモチーフを少しずつアレンジして変化と統一性のバランスをとる手法はルネサンス風でもある。いずれにしろ面白い建物である。内部のインテリアも見たかった。残念。
クアラルンプール駅
これも20世紀初頭にイギリス人若手建築家によって設計されたという。
「駅舎」という機能を満たしつつイスラムのモチーフを取り入れたのだろうが、実にユニークだ。特に数本のミナレットと一体となったドームの形状は様々な様式が衝突しユニークというよりは奇妙としか言いようがない。
植民地時代のシンボルなのかもしれない。
旧市街
そろそろ夕暮れが近くなってきた。日が暮れる前に急いで回ったのが旧市街の街並み。大きさもデザインもバラバラだが、総じて言えば屋根に三角形の破風を持ち、古典様式を真似た装飾的な列柱とアーチ型窓を持つ建物群だ。
1階は商業施設になっていることが多いようだ。全体的に汚れたイメージで、観光客が大勢集まるという街並みではなさそうだ。
最後に訪れたのが、「スリマハマリアマン寺院」ちょっと珍しいヒンズー教寺院である。
コロンンボで見た仏教寺院、先に見たイスラム寺院も日本ではなかなか見られないデザインの寺院だが、ヒンズー教寺院はさらにユニークだ。
壁も柱も窓も色が派手で尋常ではない。装飾するパーツの形も複雑怪奇と言いたいくらいだ。多神教だけあって外壁には数えられないほどの神の彫像が並んでいる。
内部も実に煌びやかで派手だ。文化の違いもここまで来ると、私などは正直「ついて行けない」と思ってしまう。
異彩を放つこの建物を私が水彩画にすることは多分ないだろう。
バンコクへ
翌日早朝、クアラルンプール空港を出発。今回はトラブルもなく1時間半でバンコクへ到着した。
昼までにはまだかなり時間がある。ホテルに荷物を置き、早速市内観光に向かったのだが、このとき初めて海外でタクシーアプリを使用した。
というのはバンコクは市内列車がそれほど充実していない。グーグルで調べると郊外の寺院に向かうにはタクシーが必須なのだ。
だが以前に記したように、私が準備したSIMはデータ専用でSMSが使えないため、タクシーアプリが使用できない。
その後寄港地でSMSが使えるSIMを追加購入したはずなのに、結局どのSIMも使い物にならなかった。簡単に言えば騙されていたのだと思う。
そこで今回は空港で「(SMSが使える)タイ国内専用SIM」を購入した。残る国は香港だけなので、安いSIMで良しとしたわけだ。当然通話も可能である。
タイではUberは普及しておらずGrabを利用する。現在地のホテルと行き先の寺院を入力すればクレジットカードから代金が引き落とされるので、現地通貨を準備する必要もなく、ぼったくりもない。
実に快適なシステムである。
海外旅行ではSMSの使えるSIMが必須だと改めて痛感した。
暁月の寺「ワットアルン」
最初に向かったのがこの寺。巨大な仏塔が目印だ。ただし同じ仏塔でも日本の寺院の五重塔などとは趣が全く異なる。
その昔、歴史の授業で日本は大乗仏教、東南アジアは小乗仏教とその違いを習った気がする。
同じ仏教でもその流派が違い、土着の文化が違うと、「釈迦の遺品を収める」という同じ目的の建物に、こんなにも差が出るのだと興味深くその姿を眺めた。
特徴は仏塔の外壁漆喰に埋め込まれたカラフルな陶片による装飾模様。そして無数に立つ仏像だ。体のプロポーションも表情も日本の菩薩や神とは趣の異なる彫刻だ。日本の仏像にはない、どこかコミカルな愛嬌を感じてしまうのは私だけだろうか?
涅槃寺とエメラルド寺院
ワットアルンはチャオプラヤー川に面している。そして対岸に上の二つの寺院がある。最初は歩いて行こうと思っていたが、橋がとても遠い。そんな時間はない、またタクシーを呼ぶべきかと思案していたが、河岸に船着場らしきものがある。
渡し船だった。どの観光客も同じことを考えるようだ。
幸いそれほど待たされることもなく、対岸に渡ることができた。
涅槃寺は目の前だ。すぐに高い仏塔が見えてくる。この寺は巨大な横臥する仏像が有名だが、私は元来あまり仏像というものに興味がない。それほど見たいと思わなかったし、塀の外から見たところ、仏塔も建物の様式もワットアルンに比べてそれほど違いがあるとも思えない。
結局、時間を節約するために思い切ってこの寺の見学は省略することにした。
そしてエメラルド寺院に向かったのだが、入口に着いてみると、入場は午前中で終了とのこと。残念ながら間に合わなかった。
市内の現代建築へ
気を取り直し、次の目的地に向かう。バンコクの見どころは実は仏教寺院だけではない。寺院建築の見学時間を気にしたのは、市内にある幾つかの現代建築を見たかったからだ。
マナハコンタワー
エメラルド寺院から再びタクシーを呼び向ったのがこの建物。タイ随一の超高層ビル。高さ314メートル。大阪のあべのハルカス300メートルよりも高いことになる。外観も途中階にスパイラル状に突き出たテラスがデザインされており、とてもユニークだ。
このビルはトップ2層が展望台になっている。早速上がってみた。さすがに300メートルを超える風景はガラス越しとはいえ、見応えがある。逆光が川に反射し町を映す構図は実に絵になる。
もっと刺激を求めたい人はさらに一層上に上がると、屋外の展望場に出られる。ここでは絶景を見ながらお酒を飲むことができる。
さらにとっておきのイベントが準備されていた。
最上階フロアの先端に建物から飛び出した、床がガラス張りのテラスがあり、地上314メートルの真下の絶景を楽しむことができるのだ。
人の荷重、風荷重とガラスの構造耐力など、私も建築技術者としてそれなりの知識はある。だが所詮は人の手で施行している。
万一のことを考えると絶対に安全とは言い切れない。不安は残る…。
などと考える意気地なしの私は結局勇気ある人々の写真を撮らせていただくことで満足することにしたのだった(上右端写真)。
なお、入場券にはこのフロアのカフェのコーヒー券がついている。タイの物価にすれば破格に高い入場券だが、ほかではできない経験を提供していると考えれば妥当な値段だろう。
アップルストア
幸いマナハコンタワーは交通至便の地にある。市内を走る高架列車に乗り移動した。
世界中にあるこの建物の中でもニューヨークと並んでそのデザインが有名らしい。ガラスの筒に屋根だけが浮いているイメージだ。
柱も梁もほとんど見えない。透明感溢れる建物だ。
中央の螺旋階段で地下に降りてみた。サインによればトイレがあるはずだ。ところが通常ある男子、女子を区別するサインがない。あるのはずらりと並んだ個室のみ。ジェンダーレスということなのだろうか?さすがアップル、進んでいると感心した。
セントラルエンバシー
夕暮れが迫ってきた。だがもうひとつ行くべき建物がある。息を切らしつつ、駆け足でたどり着いたのがこの施設だ。
用途は巨大な商業施設。見どころは中央の巨大な吹き抜けだ。巨大なだけではない。各階で大きな、位置の違う吹き抜けが複雑に絡み合い、全体として大きな一体の空間となっている。
もちろん日本にも大きな吹き抜けのある施設はある。だが通常は建築基準法により、各吹き抜けはそれぞれ防火シャッターで区画する必要があるため、空間が無限に繋がる吹き抜け空間を作るのはとても難しい。
タイの法律が羨ましい…日本の建築家なら皆そう思うに違いない。
タイ料理は美味しいか?
夕暮れが迫り、急いだのは訳がある。この日は朝、ホテルで分かれてからず妻とはずっと別行動。妻が選んだタイ料理の店に行くため、ホテルに集合する時間を約束していたからだ。
時間が迫っていたのでセントラルエンバシーからホテルまで再びGrabでタクシーを予約した。
だが、それまですぐにタクシーが来てくれていたので安心していたが、急いでいる時に限ってタクシーと出会えない。互いに近くの写真をSMSで送り合うが、私にその風景がどこかわかるはずがない。
結局タクシーが私のいるところまで来るのに40分以上かかってしまった。しかもバンコクの夕方のラッシュはとんでもなく混む。あのカイロの喧騒を思い出すほどだった。
約束時間を30分ほど過ぎてしまい、妻には「列車を使うべきだったわね」とやんわり皮肉を言われてしまった。
さて、早速妻の探したレストランに向ったが、ネットの情報が古いのか、さっぱり見つからない。諦めて結局ホテル近くの適当なタイ料理店に入ることになった。
酒も含めてそれなりの量を飲み食いしたが、二人で3,000円もかかっていなかったと思う。ヨーロッパの物価高にずっと驚いていたが、この旅行で「物価安」に驚いたのはこれが初めてだった。
もっとも私はアジア系の香辛料には体質的に馴染めないらしい。出てくるどの料理も匂いが鼻につき、さっぱり食欲が湧かない。料理の大半は妻が食べてくれたと言っていいい
アユタヤへ
翌日朝、アユタヤへ向った。列車もあるのだが始発駅はホテルからアクセスが悪く、乗り継ぎによるロスを考えるとタクシーを使ったほうが良さそうである。
それならばいっそアユタヤまでタクシーで行ってしまえとまたまたGrabを利用した。
結果的にこの判断は大正解。グーグルマップによればアユタヤまでは80km以上、時間にして1時間20分ほどかかる。タクシー代は日本円に換算すると4953円だった。
この移動距離は私の住む関西地区ではJR大阪駅から加古川駅までの距離に相当する。同じ距離を日本でタクシーを呼ぶと3万円を楽に超える。1/6の料金で目的地にピンポイントで行ける。このお得感は半端ではない。
さて現在のアユタヤは言ってみれば小さな田舎町。徒歩で観光できると甘く考えていたのだが、地図で見ると有名な施設間は相当離れている。結局、効率を優先し現地で貸切のトゥクトゥクを利用することにした。
駅のトゥクトゥク受付らしき場所で私に割り当てられたドライバーは愛想の良さそうな老人。そして中年女性の助手がコンビでついている。
「貸切」である以上当然、好きなところに好きな順番で行けるはずと考える。私は豊かな自然の風景に囲まれるアユタヤの寺院を描きたいと思った。
そこでその旨を二人に伝えると「OK!OK!」。
取り敢えず、最初に向かう寺を彼の持っている観光地図で示し、車に乗り込んだ。
最初に駅から南東方向にある、一番遠い寺にゆき、時計回りに村の外周を回り、ベストショット探す。そして最後に村の中、寺院を歩くという計画だった。
ワットヤンチャイモンコン
最初に向った駅から最も遠い寺である。横臥する巨大な石仏が有名だ。そして先端の尖った独特の円錐形の仏塔。観光客もそれほどおらず、静かな寺院である。
一通り遺跡を見学した後、いよいよアユタヤらしい風景を見たいと、取り敢えず川沿いに西へ走ってくれと頼んだ。返事は「OK、OK!」
ところが、車はすぐ近くの寺院に入る。疑問に思いながらも、せっかくの提案なので10分ほど寺の周囲をうろつき、すぐに車に戻った。
先の希望をもう一度伝えてから、出発した。
しばらくして、妻が言った。「この運転手きっとあなたの言うこと理解してないわよ。勝手に次のお寺に向かってるみたい」
そう言えば、指示した方向と反対方向に、つまり寺院の密集する中心部向かっているようだ。
たまらず、車を止めてもう一度、「村の周囲を走って田畑、川、寺などいい景色に出会ったらそこで止めてほしい。」と説明したが、妻の言う通り、全く理解できていないようだった。
要するに彼は与えられた観光地図にマークされた寺院を順番に回ることしか教えられていなかったのだ。はっきり言えば英語は「OK!」しか話せないのだ。
そこで妻がスマホの通訳アプリでタイ語表示し、同じ内容を画面で見せた。だがやはり反応が無い。日本では考えられないことだが、どうやら文字が読めないらしい。
助手の女性は多少英語を解するらしいが、やはり要領を得ない。結局、彼らの結論は私を日本語のわかる仲間に合わせることだった。
連れて行かれた先の、その仲間は確かに日本語ができた。だがやはり私の言うことは彼らには伝わらなかった。またしてもアユタヤ寺院群とは方向違いの川辺に連れて行かれたり、小さなキリスト教のチャペルに連れて行かれたり…。
このままではらちがあかない。時間がもったいないので、取り敢えず、走る道だけを指示した。車外を見て「これは!」と私が思ったところで止めてもらうことにした。
ワット・チャイワッタナーラーム
ようやく見つけたのが上の写真だ(後に調べた寺院名が標題の長たらしい名前である)。
草原の向こうに遺跡らしき塔が見える。ドライバーに「ストップ」と伝え、車から降りて周辺を探索。奥がかなり広そうだったので、ドライバーにここに行きたいと伝えると少し先に正面入り口があると言う。
早速そこから入場。かなり広い。廃墟とは言え、仏塔や建築物らしき壁の残骸はそれなりに絵になりそうだ。素材はヨーロッパのレンガとは寸法体系が全く違う独特のレンガを下地にして漆喰で表面を仕上げしているようだ。
実はこの遺跡は大河チャオプラヤー川に面して建っている。ふと対岸を見ると、緑豊かな広い公園に民家らしき建物が建っている。
あそこからこの遺跡を見れば、私が望む豊かな自然に囲まれたアユタヤ遺跡の風景が描けるに違いない。
そこで早速ドライバーに「川の向こうの公園からこの遺跡が見えるところに連れて行ってほしい」と伝えた。彼は英語ができないが、彼の仲間が通訳してくれたようだった。
例によって「O.K!」と明るい返事。一抹の不安を感じつつ、取り敢えず任せてみることにした。橋を渡り川向こうへ、行ったのは良いが、グーグルマップで現在位置をチェックすると私が検討つけたあたりとは随分離れた方向へ向かっている。
それでも我慢してその場所への到着を待った。車が止まり彼は言った。「OK!」
降りた場所には小川が流れていた。確かに公園らしき木々もある。しかしあの遺跡は全く見えない。肝心の「遺跡が見える…」という文言が伝わっていないのだ。
流石に呆れて、問答無用でグーグルマップを見せ、この辺りに行きたいと道を指示する。車で走ること約10分。
目的地に近づくと立派な門がある。「ストップ!」と車を止める。半開きの門から中を覗くとまさに目指す場所だった。
ただ、中に軍服らしき服装の男性が立っている。ちょっと不安になってドライバーに入っても良いか聞いてもらうことにした。
私の意図が伝わったのか、わからない。だが結論は「NO!」、入場できないらしい。またしても数十分が徒労に終わってしまったわけだ。
そして、トゥクトゥクの貸切時間を考えるとそろそろ、中心部の寺院を回らねばならない。出発だ。
ワットロカヤスタ
中心部の入口あたりで一旦降り、周辺民家と小さな寺院を散策した後、ドライバーに「ワット・ロカヤスタ」に行きたいと伝えると
今度は自信を持って「OK‼︎‼︎‼︎」。やっと彼のいつもの仕事に戻れたと言うわけらしい。
この寺院も巨大な涅槃像が有名だ。ちなみに涅槃像とは釈迦が入滅の瞬間を現しているらしい。熱心な仏教徒にはきっと大切な像なのだろう。
この遺跡にも円錐状の仏塔がいくつも建っている。もはやすっかり見慣れてしまったデザインだが、ここは広い池と一体となった公園のようでもあり、仏教徒でなくても、心洗われるような気がする。
ワット・プラ・シーサンペット
次の施設に向かう。広大なスペースに数多くの仏塔が林立する寺院。修復が進んでいるらしく、他の廃墟よりも綺麗である。涅槃像などの目玉は特になし。そのせいか閑散としている。
ウィハーンプラモンコンボピット
先のシーサンペットのすぐ隣にある。このとても長い名前の施設は遺跡ではなく、現役の仏教寺院。急勾配の屋根の本堂内に大きな黄金の仏像が鎮座している。参拝のために多くの人が押し寄せていた。
ワット・プラ・マハタート
アユタヤで一番有名な施設は実はここかもしれない。タイには以前に行ったことあるからと当初あまり興味を示していなかった妻もこの寺院のシンボル(上写真)だけは見たかったそうだ。
この像は、はるか昔この寺院が他国に攻められ、仏像が破壊された時、首だけが木の根に落ち、それが成長して私たちを見守るような位置と角度になったと言う伝説があるそうだ。
こうしてアユタヤの旅は終わった。アユタヤ王朝の遺跡を観光の目玉としてこの村が成り立っていることがよくわかった。
ただ残念なことは、村の暮らしに「今」が感じられない。廃墟は所詮廃墟に過ぎない。いずれ今に繋がる町の文化が育ち、この村の発展に繋がることを期待したい。
帰りは列車を利用した。全て指定席のようだったが、乗車券はとんでもなく安い。よく覚えていないが妻と二人で◯百円単位だったと思う。
そして夜。タイ最後の日の夕食。妻はタイ料理を堪能したかったと思うが、私は香辛料やパクチーに体が完全に拒否反応を示していたので、「ノー!」
優しい妻はショッピングセンター内のフードコートを探してくれた。私はごく普通の(安全な?)蟹炒飯を注文。(妻は当然タイ料理だ。)
やはりちょっと匂いが気になったが、まあまあのお味だった。もちろん、お値段はびっくりするほど安かった!「微笑みの国」はコストパフォーマンス抜群の国でもあったのだ。
エメラルド寺
翌朝、香港行きの飛行機は午後出発なので、午前中ギリギリまで観光することにした。
まず向かったのは初日に行けなかった「エメラルド寺」。その名の通り寺全体が煌めいている。まるで宝石を見るようだ。
建築材料はあざやかな色のついたガラス、鏡、陶片が組み合わさっているようだ。壁、柱、梁、窓周り、彫刻全てが装飾で埋め尽くされてる。普段日本のくすんだ木目の寺院を見慣れている私たちにとっては、まさに驚きの意匠である。
もっとも、この輝きを保つのは並大抵の努力、と言うより相当のメンテナンス費用がかかっているに違いない。屋根の軒の出が深い部分はともかく、雨ざらしの部分がかなりある。しかも日本同様、かなりの降雨量があるにもかかわらず雨樋や水切りといった建物を汚さない工夫もあまりされていない。宗教的意匠優先のディテールなのだ。
その証拠に参拝者が目にする正面は美しいが裏側は汚れたままの部分がかなりある。清掃の手間を惜しまぬ宗教心こそ、この寺の美しさの源なのだと思う。
・スアンパッカード宮殿
次に向かったこの寺院、先に見たエメラルド寺院とは正反対。宮殿と名付けられているが、茶黒の落ち着いた色で統一された木造の建築物である。
屋根の勾配や飾りこそ、タイらしいが、庭の緑や池に向かって開放された2階の内部空間はとても落ち着いた、豊かな空間だ。内外空間を一体として使う、ある意味日本的空間だと感じた。
本当はここでゆっくり椅子に腰掛け、緑と水と風をゆったりと感じて見たかった。残念ながら香港行きの飛行機の時間が迫っていたため、ほんの30分ほどしか滞在できなかった。
バンコクを訪れる人は、是非この宮殿見学の時間を確保することをお勧めする。
実はこの日は(この日も?)朝から妻とは別行動。12時にホテルで待ち合わせていたのだが、待合せ時間直前になって「乗る電車間違えたので遅れる!」とライン連絡が入った。
仕方がないので予定変更し、直接鉄道駅で待ち合わせることにした。飛行機の時間を気にしつつ、ホテルから二人分の荷物を引いて駅に急ぐ。幸い、互いに迷うことなく無事乗車、空港にたどり着くことができた。
しかし、やはりすんなりと旅させてくれないようである。空港はとんでもなく混んでいた。税関の前には長蛇の列が待っていた。1時間ほど並んだだろうか?全ての手続きを終え、飛行機の座席についた頃には、二人とも疲れ果てていた。
考えてみれば当然だ。四泊五日の間に、シンガポール、ペナン、クアラルンプール、バンコク、アユタヤ、香港と4カ国、6都市を巡ったのだ。
充実感は100%だったが、疲労度はたっぷり120%だったというわけだ。
※同じ東洋なのに日本とは異質の空気感…アユタヤを絵にしてみた!→「寺院跡 Ayutthaya」
そして最後の都市 香港!
夜遅くやっと香港に到着。ほっとしたものの、船が停泊している港までは歩いて行ける距離ではない。タクシーが捕まるか心配したが、香港の空港はタクシーの案内係が常駐し、飛行機が到着すると合わせてタクシーを呼んでくれているようだった。ありがたい。
すぐにタクシーに乗り込み、無事港に到着した。
車を降り、停泊するピースボートの船をこの目にしたとき、思わず我が家に帰ってきたような感覚を覚えてしまったことを告白しておこう。
体は疲労の極致。一刻も早く眠りにつきたかったが、香港の名物はご存知「夜景」だ。
明日は16:00出港予定なので夜景は見られない。
「今日しかない!」と気づき屋上デッキに出て撮影したのが下の写真である。
だが実を言えば、以前に香港で見た夜景ほど感動はしなかった。あとで調べると最近は香港市内に「ネオン」の規制がかかっており、昔のような華やかな夜景にはならないとか。
そして撮影完了。長かった一日を終えた。
翌朝は快晴。妻は昼食を市内の飲茶に行きたいという。お目当ての店があるようだった。だが疲れとアジア系の匂いのきつい食事にうんざりしていた私はこれを拒否。港に付属するショッピングセンターのレストランで「和食」を食べると宣言した。そして食事したら部屋で水彩画を描くと。
ちなみに私が食べた和食とは鰻重とすき焼きうどんと各種小鉢と冷酒。
大満足!…だがあとで値段を計算するとなんと1万円!
こうしてこの旅行の全てのイベントは終了した。4日後はいよいよ日本である。
見知らぬ人と仲間になることを強要するピースボートの思想とシステム、安く見せて高いオプションを追加するツアーなど私にとって気に入らないことは多々あったが、いざ旅が終わるとなると寂しくなるのは人情だ。
旅に行く前には毎日絵が描けると、楽観していたのだが、自分に課した制作枚数のノルマは達成できなかった。
帰国を控えて何よりゾッとしたのは、全て人任せだった、食事の支度も、ベッドメイクも部屋の掃除も帰ったら全部自分達でしなければならないのだ。
そしてその気になれば何時まででも寝ていられる毎日が休日の日々ももう終わるのである。
この事実に気づいた私は、残り3日間を日常復帰のための準備期間に充てることにした。
まず朝は5時5分(私の通常の起床時間である)に起きる。早い朝食を済ませ、デッキで軽くウォーキング、その後は早速部屋で水彩画の制作をする。
ベッドメイク、と昼食が済んだらまた水彩画を描く。そして夜は翌日に備へ、それなりに健全な時間に寝る。
この三日間の訓練はそれなりに有効だった。神戸港に着いたとき、ためらうことなく陸に足を踏み出せたのだから。
さて最後にまだ難関が待っている。荷物の運搬である。旅行中に買ったお土産類で荷物は相当に増えている。すぐに使わない荷物は宅急便で送るとしても、割れ物など重いものは自分で家まで運ばねばならない。
カートに山盛りの荷物を引いて取り敢えずタクシー乗り場に向かう。だが普通のタクシーの座席やトランクにはとても入りきらない。バン仕様のタクシーが呼べないかスマホのアプリを調べたが、そんなオプションは見つからなかった。
途方に暮れかけたとき、目の前にまさに求めていたバン仕様のタクシーが止まった。ラッキー!なんとか全ての荷物を車に積み込み、我が家に向けて出発。
ドライバーから彼のナビに投入する我が家の住所を尋ねられたが、何と即答できない。
とっさに思いつく近くの目印となる建物を伝えたものの、3ヶ月半の神戸不在の事実を改めて知らされる羽目になった。
さて我が家に帰り、荷物を置き、最初にしたことは昼食を取ること。行ったのは自宅近くの「回転寿司」。
…日常の始まりである。
P.P.S.
私の作品の一部を「加藤美稲水彩画作品集→」で公開しています。是非ご覧ください。
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