先日、西宮市大谷美術館にメスキータ展を観に行った。
作家の本名はサミュエル・イェルセン・デ・メスキータ(1868年〜1944年)、オランダのグラフィックアーチストだ。
若い頃、美術学校を受験したが失敗して、建築家を目指した。その後美術学校で教鞭をとり、あの有名なエッシャーを育てたという。
美術、建築両方の素養があるということは、私と興味の方向(painter_yoshineはどんな人?→を参照)が同じだろうと大いに期待していた。
さて作品は?
最初の展示室は若い頃の作品。素描、版画、油絵などが並んでいた。だが木版画は彫刻刀の跡が粗っぽさが気になって、モチーフに感情移入できない。油絵は色彩が濁って美しくない。人物デッサンも狂いが目立つ。
建物の絵というよりも建築家としての立面図のような作品があった。さすがに建築家を志しただけあり、個性的な作品だと感じた。
だがこれも筆致に特に個性があるわけではなく、建物の素材感を表現するほど描き込んでいるわけでもない。あくまで製図の延長であるように感じた。
というわけで期待した割には、若い頃の作品に私の興味を惹くものは全く無かったと言っていい。
そして2階の展示室へ
イメージはガラリと変わる。いや、木版画やエッチング、リトグラフが中心なので、表現手段はそれほど変わらない。
変わったのはまず第一に構図。そして線が描く形そのものだ。版画では白と黒のバランスだ。
例えば動物が描かれている。1階では大半が画面の中央に描かれていたが、2階では画面の下端に動物が描かれて、上方の半分以上が余白である。それが見るものに、その空間にあるものを考えさせる。
よく見れば、図案ごとにメインのモチーフの位置を工夫してあるようだ。
例えば花の絵がある。1階ではモチーフの形を写実的に捉えようとする意思が感じられるが、こちらの絵は、写実であるよりも、花びらの形をより美しく、葉脈の線はより生き生きと、グラフィカルに、装飾的に表現されている。
1階の展示が芸術家としてメスキータが目指す方向を模索している姿を展示しているのだとすれば、2階の最初の部屋は写実的な画家ではなく、「グラフィックデザイナー」としての才能を開花させたことを暗示する展示室であったような気がする。
最後の部屋は?
彼のグラフィックデザイナーとしての本領を存分に発揮した作品の数々が展示されている。
前の部屋ではあくまで、対象の美化、装飾化が創作の中心であった。しかしこの部屋では人の心の奥に潜む不思議な感情の表現をしようとしたらしい。
彼の描く線は人間の顔や身体の見た目の線を追わない。彼の感性が感ずるままままに走っている気がする。
いや本当は彼が表現しようとする奇妙な人間の存在感を計算づくで描いていたのかもしれない。
その意味でこの部屋の作品の評価は好き嫌いが分かれそうだ。
私はと言えば、人間というよりは妖怪のような表情に何か深い感情が込められているような気がするものの、それを「美しい」とは感じられなかった。
エッシャーを育てたというからには、彼にとっての「現実」は超えるべき対象だったのだろうと思う。でもやはり私は現実の中での「美」にあこがれる感情を大切にしたいと思う。
偉大なるグラフィックデザイナーに敬意を払いたいとは思うが、私が描きたい絵とはずいぶん違うようだ。
美術館でいつも感動するとは限らない。だが自分の思いを再確認するきっかけとして、創作の刺激として、美術館を訪れることはやはり大切だと思う。
さて次はどんな作品が刺激を与えてくれるだろうか?
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