駅裏で発見!レトロな昭和の街を歩く

 美緑空間へようこそ。そして水彩画を、風景画を描き始めたあなたへ。そろそろ絵の題材に困っているのではなかろうか。しょっちゅう京都や奈良へ旅するわけにはいかない。かといって家の周りの住宅街では絵にならない・・・。きょうはそんな人のために「駅裏」に注目してみたい。

 ご存知のようにJR東海道線は神戸と東京を結ぶ東西に走る線路なので、各駅には通常北口と南口がある。そして通常片側が駅前〇〇と言われ、もう片側が「駅裏」と呼ばれることになる。高架が進んだ現在は別として、かつては線路で往来に制限されたので、どうしてもどちらかだけが経済的に発展しもう片方はさびれる運命にあったのだ。
 例えば大阪駅は大阪城や御堂筋のある南側が先に発展し、「北ヤード」と呼ばれる北側が再開発されるようになったのはつい最近だ。
 京都は京都御所や東山の寺院群など歴史ある北側に観光客が押し寄せ、発展しているが南側は東寺を除けばどちらかと言えば工業地帯である。

 そして今日取り上げる町、名古屋は東海道線には珍しく南北ではなく、東西に駅の入口がある。だが、先に述べた町の発展の法則は変わらないようだ。名古屋城のある駅の東側は戦後急激な経済的発展を遂げた。片道4~5車線の広い道路が市内を碁盤の目状に走る、全国有数の都市インフラを持つ町として有名だ。一方西口は「駅裏」となり町の発展から取り残された。
 私は実は大学時代、名古屋に下宿をしていた。だからその事実を身をもって体験している。大学と下宿の日常の移動はもちろん、サークルの仲間で遊ぶのも、買い物をするのも、デートするのもすべて東側だ。駅裏に足を運ぶことなどほとんど無かった。

 さて、そんなさびれた駅裏だが、風景画の題材を探し求める私たちにとっては実は、素晴らしい穴場である可能性がある。
 冒頭の写真は名古屋駅の「駅裏」つまり西口から歩いて15軍ほどの距離にある風景だ。悪くない。大学時代には見向きもしなかった駅裏にこんな町並みが残っていたのだ。
 考えてみれば、経済的発展から取り残されるということは、東京の三菱一号館のように近代的な高層ビルに建て替えられる(詳細な記事はこちら→)必然性もないわけで、昔のままの風景が残される可能性が多いということだ。
 もっとも京都や奈良と違い名古屋は終戦直前に大規模な空襲を受けているので、歴史的な遺構はそれほど多くは残っていない。重要伝統的建造物群の指定を受けるのはとても無理だろう。だが街歩きして、スケッチするだけのレトロな雰囲気は十分に残っている。

 この街の名は「中村遊廓」。そう、いわゆる「風俗」の街だった。学生のころ私が知らなかったのは一つには、通常の町並みと違い、あまり大々的に宣伝する街ではなかったこともあるのだろう。
 遊廓としての街は江戸時代に始まるらしいが、最も栄えたのは昭和初期。娼妓、約2000人を擁する街でその規模は当時東洋一と言われたという。

 私が訪れた時、当時の面影を想像できる保存状態のいい建物は3棟ほど残っていた。一番目立つのが冒頭の建物。弁柄の壁がいかにもなまめかしい。現在はデイサービスセンターとして使われているらしい。
 二つ目は「松岡」という看板がある割烹旅館風の建物。これも現在はデイサービスセンターらしい。

 3つ目が上の写真の建物。見た限りは住宅のようだった。だが建物の造作はかなり凝っている。個人的にはこの建物が一番気に入り、時間の無い中でなんとかクロッキー帳にペンスケッチをした。
 ただし、この記事を書こうとして、最新情報をインターネットで調べたらこの建物は最近解体されたという。実に残念だ。

 さて、開発から取り残された「駅裏」のエピソード、いかがだっただろう。あなたの街の「駅裏」を、是非もう一度歩いてみることをお勧めする。

P.S.
風景画の題材に困っている人はこのブログの「スケッチの旅 日本編」というカテゴリを、手っ取り早くお薦めの場所を知りたいという方は「ここが描きたい日本の風景」という記事を参考にしてほしい。

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