ルノワールは何故人気があるか?
絵が好きな人でおよそ印象派、ルノワールの絵画が嫌いな人はいないだろう。日本で必ず成功する展覧会は印象派、それもルノワールの作品が多く含まれるものなら確実だという。
何故?。正直言ってそれを説明できるだけの勉強はしていない。
ただ私が人をリアルに描く「人物画」というジャンルを知ったのはレオナルド・ダビンチの「モナリザ」のおかげであったが(「ルネサンスの絵画から学んだものは?→」を参照)、可愛らしい少女の肖像に憧れ、今でも好んで女性像を描くようになったのはルノワールの「イレーヌ・カーン・ダンヴェルス嬢の肖像」の存在があったからだ(「私の人物画が売れた訳→」参照)。
だから大学に入り、アルバイトをして、最初に買った画集は「ルノワール」だった。もちろん今でも手元にある。
ルノワール作品への疑問
さてそんなルノワールの絵だが、実は大学に入って自分で油絵を描き出すと、どういうわけか彼の作品に急激に興味を失ってしまった。
一つには、私は当時大学の美術部に入っていたせいであまりに周りにルノワールファンが多かったせいで、元々天邪鬼と言われる私は、同じようになって騒ぐのを嫌ったせいもある。
もう一つの理由は、最初に買った画集をしげしげと見る、あるいは日本に来たルノワールの展覧会を見て思うのであるが、「イレーヌ嬢の肖像」以後の作品(冒頭の右側の作品など)は印象派としての主張が強すぎると感じるからだ。
言い換えると彼の絵にあまりリアリティを感じなくなってしまったせいだ。
もちろんリアリティ=芸術性ではないのだが、個性よりも女性そのものの色や形を追いかけるようになったような気がしてならない。
そして残念ながら風景画も同様だ、最初はルノワールの風景画はどれもとても気に入っていた。明るい色を荒い筆のタッチでキャンバス上に置いてゆく。離れてみるととても美しくいい雰囲気だ。
でも実は気がついていた。そんな絵には少なくともデッサン力はあまりいらない。19世紀当時広まった工業生産品絵具の流行と色彩の最先端の理論はあるが、伝統的な画家だけが持つ職人芸のような絶妙な筆さばき感じられない。
絵画史上の大家に対して、不遜なことを考えたものだが、個人の勝手な思い込みは変えられない。日本には、かなり頻繁に来る画家の作品でありながら、ここしばらく彼の展覧会に行っていないのはそんなわけがあったからだ。
「イレーヌの肖像」もう一つの魅力
だが最近改めて冒頭の「イレーヌ・カーン・ダンヴェルス嬢の肖像」をじっくりと見ることがあった。注目したのはその「背景」だ。
ルネサンス以前の人物画は神話を舞台に描かれることが多い。だから背景はその題材に合わせ具体的に描写される。
そしてルネサンス以後ではモナリザのように、「個人の人間」が主役になり、背景に主観的な情景や色彩が使われるようになる。しかしやはり屋外、あるいは室内の風景が中心だ。さらに下ってアングルやドラクロワの時代では背景は人物を引き立てる小道具となり、抽象的な空間表現となる例もある。
ところがこのイレーヌ嬢の肖像の背景にはもちろん神話の風景も、具体的な風景も描かれていない。かと言って色だけの抽象的な背景表現ではない。
森の中にさす光が木の葉に乱反射してイレーヌ嬢を包み込むような具体的なイメージを想像させる。具体的なテーマがありながら表現が抽象的なのだ。
私はこの印象派の時代に生まれた画期的な手法だと思っている。
①図は私が描いたとある水彩画の制作過程、鉛筆でのデッサンを終えたところだ(「素描をデッサンだけで終わらせない!私の人物画作法とは→」を参照)。
プロのモデルさんをアトリエで描いているので背景はアトリエの床と壁だ。実はこの絵、着彩時に背景をどうするかでかなり悩んだ。
ご覧のように服装は夏真っ盛り。アトリエの壁をそのまま描くことはナンセンスだ。かといって全く抽象的に色だけを施すのも雰囲気が出ない。そこでルノワールの手法、印象派の手法を思い出した。
テーマは真夏の草原。青い空と輝く草原、涼げな緑陰。具体的なイメージを抽象的に水彩画らしい色使いで表現すればいいのだ。そうして完成したのが②の絵だ。
背景についてはとても気に入っている。やはりルノワールは偉大だったのだ。
コメントを残す