
絵を描く者にとって、名画を見ることは単なる鑑賞ではない。
構図、形の誇張、肌の表現、そして画家が何を美しいと考えたのかを学ぶ時間でもある。
今回取り上げるアングルの《グランド・オダリスク》は、私にとって「見ること」と「描くこと」が深く結びついた一枚である。
この絵は言うまでもなく「裸婦」を描いた「絵画」である。絵描きにとってごく普通のモチーフだ。私自身も裸婦の絵は展覧会に行ってよく目にするし、裸婦クロッキー会にも参加する。
だが、子供の頃となれば話は別だ。中学生の頃、有名なルノワールの「イレーヌ・カーン・ダーンヴェール嬢の肖像」に憧れたと以前に書いたが(「私の人物画が売れた訳は→」を参照)、少女像がせいぜい、成熟した女性像を、まして「裸婦」を目にすることなどほとんどなかった。随分と純情だったわけだ。
「グランド・オダリスク」とは?
そんな私が初めて「裸婦」の絵画をじっくりと見たのは19歳、予備校生の頃だった。その絵が、冒頭のアングル作「グランド・オダリスク(横たわるオダリスク)」だ。
もっとも実物を見たわけではない。画集だ。(なお余談だが、この画集は私が初めて母以外の女性からもらった誕生日のプレゼントだった。)
実を言えば、別に裸婦の絵を見たのがその時初めてではない。もちろんその画集にも、他に何枚も裸婦の絵が収められている。何故この絵に惹かれたのか。最大の魅力は白い官能的な背中を見せ、振り返ってこちらに視線をむける独特のポーズだと思う。
神話世界を描いた古典絵画はもちろん人間そのものを描いたルネサンス絵画(「ルネサンスの絵画から学んだものは?→」を参照)だってこんなポーズの裸婦は見たことがない。
そして絵が好きな人ならば、どうやって描いたのだろうと、誰もが見入ってしまうその滑らかな肌のリアルさ。
この超絶技巧はどうやらこのブログで何度も触れたグリザイユ画法(「水彩画の基本!知っておきたい グリザイユ画法と絵具の透明度→」を参照)によるものらしい。
実物を見たい人へ!
この魅惑的な裸婦像の実物を見たいと当然誰もが思うだろう。だが私が調べた限りでは、この絵はかつて日本に一度も来たことがない。どうやらアングルの作品はフランスのルーブル美術館、アングル美術館ともにあまり海外に出さないらしい。
だから、印象派の画家の作品などは数えきれないくらい日本に来ているのに、本格的なアングル展が開催されたのはつい最近、1981年だった。幸いにこの時は私が住む関西にも来てくれた。大いに期待して見に行ったのはいうまでもない。
だが、残念。展覧会そのものは見応えがあり、あの画集にあった有名な絵のほとんどはこの目で見ることができた。だがこの「グランドオダリスク」はなかった。つまりこのグランドオダリスクの実物を見た日本人はそれほど多くないはずなのだ。
本来であれば、私の話はここで終わる。つまり、私にとって憧れの「グランド・オダリスク」を「いつの日か見たい」で締め括らざるをえなかったのだが、実は続きがある。
ついに…これが…!
この絵はフランス、パリのルーブル美術館にある。トップページ(「美緑(みりょく)空間へようこそ!→」)にも書いたように、私は海外へスケッチ旅に度々出かける。
その時に見たと言いたいところだが、あいにく他に描きたい土地が多く、まだフランスに行ったことがない。それに、大きな美術館に入ってしまうと、その日はそれで終わってしまい、絵が描けなくなってしまう。
だから私は唯一の例外を除いて私はヨーロッパの美術館には入ったことがない。
その唯一の例外とはマドリードのプラド美術館。スペインスケッチ旅行に行った時、マドリードで財布を摺られ、創作意欲も削がれやむなくプラド美術館に入った時だけである。(「スペインをスケッチする マドリード編→」を参照)
その日は2016年3月15日だった。偶然入ったとは言え、当然目的はスペインの代表画家、ベラスケスとゴヤを見るためだった。
ところが、何と偶然にもアングル展が特別展として開かれていたのだ。そしてルーブル美術館からこの「グランド・オダリスク」も来ていた。
柔らかな背中を見せる見返り美人の絵にしばし時間を忘れて佇んでいたことはいうまでもない。
35年前に大阪の美術館で味わった無念さを異国の地、プラド美術館で晴らすことができた。私のスケッチ意欲を奪った、あのスリにも、多少は感謝していいかもしれない。
P.S.
私が魅了されたあの背中には有名な解説がある。アングルは現実の人間よりもわざと背中を長く伸びやかに描いたらしい。当然、背に沿って伸びる手も長い。いわゆるデフォルメだ。
当時のアカデミックな画壇からはそれを批判されたという。だが、何十年も私がこの絵に惹きつけられたのは、多分そのデフォルメがあったせいではないかと思う。テクニックは古典的だが精神とテーマは先進的というまさに「新古典派」の画家にふさわしい試みだと私は思っている。
絵を学ぶ上で、この「わざと変える」という感覚はとても重要である。
目に見える形を正確に写すだけでは、必ずしも魅力的な絵になるとは限らない。
画家は対象を見つめながら、自分が感じた美しさに合わせて形を選び直している。
アングルの《グランド・オダリスク》に惹かれる理由も、まさにそこにあるのだと思う。
P.P.S.
トップページに書いたように絵描き活動を続けるには常に刺激を受ける芸術的なインプットが必要だと思っている。そんな私の体験をカテゴリ「ためになる美術講座→」としてまとめてある。興味のある方は覗いてみてほしい。
文中にリンクを張った以外にも以下のような関連記事を書いている。興味のある方は参照してほしい。
■スケッチ旅について
- カテゴリ「スケッチの旅海外編→」
- 「スケッチ旅行に必要な道具とは→」
- 「海外スケッチの旅 5つの心得→」
- 「海外スケッチ旅、安く行く方法は?→」
■絵の技法について
P.P.P.S.
■名画を見る力を、自分の制作へ
アングルの《グランド・オダリスク》が私に教えてくれたのは、絵は現実をそのまま写すだけではない、ということだった。
形を少し伸ばし、流れを整え、画面全体の美しさを優先する。その「わざと変える」判断の中に、画家の感性が表れる。
神戸水彩画教室では、風景画や人物画を題材に、対象を正確に見ることを大切にしながらも、絵として美しく見せるための形の整理、明暗の組み立て、色の重ね方を学んでいただく。
あなたが感じた光や空気を、一枚の絵として表現してゆくための教室である。












[…] 最初に書棚に並んだのはアングル(その理由は「裸婦の名画 グランドオダリスクに会う→」を参照)。次にルノワールだった(その理由は(「私の人物画が売れた訳→」参照)。 […]
[…] そして絵具が完全に乾いてから上にモチーフの固有色を透明な油絵具で薄く塗ってゆく。何層にも薄い絵具層を重ねることにより、画面に複雑な表情を生み出すことができるのだ。 冒頭に掲げた私の好きなアングルの「横たわるオダリスク」はその代表例として伝えられている。(「裸婦の名画「グランドオダリスク」に会う!→」を参照) […]