さて、水彩画を描き始めると、水彩紙の良し悪しで作品の出来栄えが変わることに気づくだろう。水彩紙の基本の性能とグレード、コスト比較については「水彩画入門!始めに買うべき道具は?→」で紹介しているので、先に一読してほしい。
ここでは、水彩紙をさらに極めたい方へ、あるいはプロの水彩画家を志す人のためにさらに詳しい情報をお届けする。かなり科学的、専門的、マニアックな話になるがご容赦願いたい。
■水彩紙とは何か?
いろいろ調べたがそもそも水彩紙の正式な定義が見当たらない。広辞苑にも載っていない。ここでは最低限の定義として、水性の絵具、特に透明水彩を用いる描画に適した紙の総称としておこう。
特徴としては、普通の画用紙に対して、まず紙が厚い。そしてはるかに吸水性が高い。表面が堅牢で毛羽立ちが出にくい、しわや波打ちが少ない。経年変化に強い中性紙であるということが言えそうである。
■水彩紙は何でできている?
水彩紙の成分は普通の画用紙と変わらない。主成分は植物から採れるセルロースだ。
さらに専門的な話をすれば、酸素、水素、炭素が繋がった天然素材の高分子化合物である。そしてセルロースは植物の細胞壁の主成分である。したがって当然、地球上で最も多い有機化合物だ。
セルロースは水に溶けない。アルカリに強いが酸には弱い。セルロース分子同士は水素結合し繊維状になる。それをシート状に加工したものが紙だ。紙は水に濡れると分子同士の水素結合が切れて、弱くなる。
■コットンとパルプの違いとは?
水彩紙の成分はセルロースであると書いた。しかし現実にはセルロース100%に近い植物はコットンなどわずかしかない。したがって流通している紙のほとんどはどこでも豊富に手に入る木材から採れるセルロースで作られている。
しかし通常、植物の細胞中にセルロースの割合は30%~50%しかなく、木材においては残りの成分の大半がリグニンと呼ばれる物質である。木材の構造を鉄筋コンクリートの建物に例えれば、セルロースが鉄筋、リグニンがコンクリートだそうだ。
木材のリグニンを出来るだけ取り除き、セルロースを主成分とした繊維素がパルプである。コットンと同じセルロースを主成分とするパルプだがリグニンなどの非セルロース分はまだ残っている。
■コットン紙とパルプ紙の吸水性比較
「水彩画入門!これだけ揃えれば十分?→」の記事で水彩紙としてはパルプ紙よりもコットン紙の方が優れていると書いた。その最大の理由は吸水性である。
単なる画用紙は水彩絵の具のことを考えて作られていない。したがって吸水性が低く、水をたっぷり含んだ水彩絵の具を塗ると、水と水彩絵の具が混じったまま紙の表面に留まっている。水分が乾燥するまでの間に顔料の多い部分と少ない部分が分離して、色にムラが出る。
水彩画独特のにじみの表情ができるわけでもないし、筆のエッジが残るわけでもない。
一方高級な水彩紙は水は水彩紙の内部に吸収され、絵具の顔料のみが表面に均一に定着されれ色ムラがない。そして水分が乾くと絵具内のアラビアゴムが顔料をセルロース繊維に固定する。
この水が紙に染み込む過程で、にじみの面白い形が表現され、筆のエッジの動き従って顔料が表面に残るというわけだ。
そして水彩紙にとって一番重要なこの吸水性はパルプ紙よりもコットン紙の方が優れている。その理由は繊維の形状にある。パルプの繊維はコットンの繊維に比べ、短く、断面形状も扁平である。
したがって紙の製作工程の中で圧力がかかる時に繊維同士が密度高く密着しやすい。つまり、空気層が少ないので物理的に水の浸透場所が無くなってしまうからである。
■サイジングって何?
サイジングとは紙の表面に施すにじみどめのことである。この処理をしないと吸水性の高い水彩紙は、キッチンペーパーにジュースをこぼした時のようにあっというまに色が広がってしまう。
当然筆のエッジ、線の跡など全く見えなくなってしまい、絵具が紙の奥に沈むので表面の色は黒ずんだシミのようになる。とても作品にはならない。水彩紙の保存状態が悪く、サイジング処理が劣化するとやはりこの状態になる。これを絵描きの言葉で「水彩紙が風邪をひいた」と呼ぶ。
かと言ってサイジングが過剰であると、表面が絵具をはじいてしまう。画家にとってちょうど良いサイジング具合を施した水彩紙が人気のある水彩紙ということになるのだ。
■紙の劣化はなぜ起きる?
一般に紙は経年変化によって黄変し、弾力性を失い脆くなる(酸性劣化)。芸術作品のために造られた水彩紙にとって耐久性の向上は必須の条件である。
黄変の主たる原因はやはりパルプに含まれるリグニンにある。リグニンは紫外線と空気中の酸素により酸化しやすい。酸化すると黄色の光だけを反射するような分子構造に変わる。これが黄ばみである。
コットンのリグニン含有率は1%(重量)以下だが、広葉樹パルプでは10%残る。したがってパルプの水彩紙は黄変しやすいことになる。
またセルロースは元来酸に弱い。水彩紙には紙の表面のにじみ過ぎを防ぐためサイジング剤(ゼラチン、マツヤニ、など)が塗られている。このサイジング剤を定着させるために使う硫酸アルミニウムが紙を酸化してしまう。
酸にふれると繋がっていた多くのセルロース分子がばらばらに切れてしまう(重合度が低下する)。従って長く、しなやかに繋がっていた紙は、硬く、脆くなる。近代製紙法が開発された初期の印刷紙は酸性紙であり、図書館で厳重に保存されていたはずの資料がボロボロになって問題視されたのはこの酸性劣化が原因である。
そこで水彩紙には硫酸アルミニウムを必要としない、中性のサイジング剤が施されている。しかしここでもパルプに含まれるリグニンが問題となった。
その中性サイジング剤はセルロースよりも先にリグニンと反応してしまう。したがってコットン100%の水彩紙以外のパルプから作る水彩紙はやはまだ、サイジングに硫酸アルミを使わざるを得ないらしい。
そのため、パルプの水彩紙に「acid free」 表示がしてある紙は、紙漉きの最後の段階で、使用水に炭酸カルシウムを含ませ、PH値がニュートラルになるように調整しているそうである。
■水彩紙の表面仕上げの違いとは?
水彩紙は仕上げ、プレスの方法によって3種類に分かれる。荒目は漉いたままのの状態で、プレスを加えないもの。中目はcold press ともいい、熱を加えないプレス。細目は熱を加えたプレス。hot pressつまりアイロンをかけたもの。
荒目、中目は表面に明かな凹凸がある。半透明色、粒状の絵具をこの仕上げの紙に塗ると、窪んだ部分に絵具が多くたまるので表面に粒状のテクスチャーが出る。一方で透明度の高い絵具は粒状テクスチャは見えない。
細目は凹凸がほとんどないので線が美しく引ける。細かな描写に向く。
■どの水彩紙をつかったらいい?
水彩画を始めた人が頼りにするであろう、インターネットによる水彩紙の評価記事は実に多くある。しかしほとんどが主観的な好みの比較論であまり頼りにはならないように思える。
そんな中で比較的客観的に性能比較が見られるのが、ホルベインのホームページだ。製品情報→Webカタログ(https://www.holbein.co.jp/product/catalog)とたどると、(材料)、(弾き度)、(吸込み・乾燥度)、(にじみ・ぼかし)、(表面強度)の5つの項目に分けて分析した五角グラフがある。
簡単に説明しよう。まず材料。これは紙の繊維の原料綿か木材から抽出したパルプかということ。パルプ100%に近いほど高得点だ。
弾き度。これは紙面の水分の弾く度合い。吸込み・乾燥度これは弾き度と関連する。弾き度が高いほど吸込み乾燥は遅い。にじみ・ぼかし度。きれいに出来るほど高得点だ。最後に表面強度。これは筆、消しゴムなどを重ねた時の毛羽立ち具合だろう。
しかしこの分類と評価にもちょっと疑問がある。材料と表面強度以外の評価は全て「強い」「やや強い」「普通」という主観評価で誰もが同じとは言えない。また製品も、アヴァロン、ウォーターフォード、ストラスモア、ホワイトアイビス、クレスター、アルビレオしかないので、有名なアルシュやファブリアーノとの比較ができない。あとはやはり自分んで実際に使ってみるしかなさそうだ。
■水彩紙の色の秘密とは?
水彩紙の条件の一つは表面が美しい白であること。コトバンク(https://kotobank.jp/)で「セルロース」検索してもと日本大百科全書(ニッポニカ)の解説として「セルロースは吸湿性の強い無味・無臭の白色固体で・・・」と「白色」という記述がある。
しかし今まで紙は白いと当たり前のように思っていた常識は、どうも科学の最先端を行くナノテクノロジーの世界ではそうではないらしい。
セルロースの分子は実は「白」ではなく「透明」なのだそうだ。それが白く見えるのは何故か。
水素結合したセルロース繊維が絡まると内部に空気層ができる。光は屈折率の高いセルロースよりも屈折率の低い空気層を通る。空気層で光が乱反射し全ての波長の光が混じり合い、紙は白く見えるのだ。
この現象に注目し、ナノテクノロジーにより作られた微細なセルロース繊維で作られた紙はぎっしりと詰まり、内部に空気層がない。したがって光はセルロースを通り抜け、透明になる。「透明な紙」が誕生したのだ。
セルロース繊維を 極限まで短く、細く加工したのが画期的な「透明紙」であるのに対し、できるだけ長く太い天然のセルロースを使ってできるのが最上級の「水彩紙」というわけだ。
P.S.
このブログでは以下のような関連する記事を書いている。興味のある方は参照してほしい。
- カテゴリ「絵画上達法→」
- カテゴリ「ためになる美術講座→」
- 「絵具の知識 透明水彩は何故美しい?→」
- 「水彩画の魅力 「色」とは何だろう?→」
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