大阪の街づくりに注目!
東京と並ぶ大都市大阪。
地元住民の「上方」意識は強く、東京に対する対抗心は相変わらず旺盛だ。だが、大阪市の人口は停滞気味で約270万人(2015年統計)。「大阪都構想」を巡る選挙で注目を浴びたのは記憶に新しいが、東京はもちろん、実は人口は372万人(2015年統計)の横浜市よりも少ないのが実情だ。
「首都東京」に比べるといまひとつ、活気に劣る大阪だが、街づくりにおいては粋な試みをしている。その一つが中之島界隈の都市整備だ。
東京が「一丁倫敦」の風景の要であった建物を次々と取り壊し(「甦った?首都東京の風景を描く→」「ペンとパソコンでスケッチ!消えゆく「一丁倫敦」の風景→」を参照)生まれ変わっていったのに対し、大阪市はかつての「水都大阪」のイメージを前面に押し出す政策を取っている。水彩画家としては嬉しい限りである。
大阪の近代建築紹介
そのパンフレットの一文から察するに、目標の一つはどうやら「中之島をパリのシテ島にする」ことのようだ。言われてみれば、堂島川と土佐堀川にはさまれた中之島ゾーンはセーヌ川のシテ島と形もスケールもそれほど違わない。
建物も有名な辰野金吾設計の中央公会堂(中之島公会堂)や辰野金吾の弟子野口孫市設計の府立中之島図書館、同じく辰野金吾の日本銀行大阪支店など、パリのノートルダム寺院ほどの歴史はないものの、名だたる名建築が並んでいる。
建物だけではない。バラ園で有名な手入れの行き届いた中之島公園。「大江橋」、「難波橋」など石造アーチの橋梁もシテ島に架かる橋とデザインにおいて遜色ない。
水彩画家としては中之島公会堂、中之島図書館は5月、新緑鮮やかなゴールデンウィークの頃が季節の色が画面に表現できるのでお勧めだ。
一方大阪の大動脈「御堂筋」に面する日本銀行大阪支店をスケッチするなら秋をお勧めする。なぜならご覧のように、御堂筋のシンボルである銀杏並木が威厳のありすぎる建物の外壁を鮮やかな黄色の葉をアクセサリーにして飾ってくれるからだ。
実はこの中之島界隈には、先の3つの近代建築とはちょっと毛並みの変わった建物がほかに2つある。
同じ土佐堀川に面してビルの谷間にぽつんと建つ「北浜レトロビル」。大正時代にできた建物らしい。入り口や窓周りの石の装飾や銅板屋根が面白い。
そしてその少し南に、やはり近代的なビルに囲まれて立派な和風の建物が建っている。これが「愛珠幼稚園」(上図右下)。民間によって建てられた日本最古の幼稚園だそうだ。
そして両方とも残されているのは外観だけじゃない。前者は「紅茶専門店」、後者はいまだ幼稚園として元気な幼児を育てている。
私の絵描きとしての活動のひとつは「今に生きる日本の風景」を描くこと(「美緑(みりょく)空間へようこそ!→」を参照)。
その意味ではこれらの風景は私の意図にぴったり合う。当然5つの風景はいずれも私の水彩画作品になっている。
こんな取り組みも!
なお、「水都大阪」の活動は当初は大阪市が中心であったが、現在は大阪府、大阪市、民間一体の「水都大阪コンソーシアム」として引き継がれている。
そのせいだろうか、最近のイベントは本来観光客の減る真冬にも行われるようになった。
その一つが「クリスマス」に行われる中之島公会堂のファサードへのプロジェクションマッピングだ。
公会堂のルネサンス様式の窓やバロック風のドーム屋根の形を生かした見事な映像ショーだ。毎年多くの観光客がビデオやカメラを手に押し寄せている。
先に書いた「粋な取り組み」は少しずつ実を結んでいる気がする。いつの日か「シテ島を日本の中之島と比べる・・・」などという記事をパリジェンヌが読んでくれる日が来ることを期待したい。
P.S.
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- カテゴリ
- スケッチ旅について
- 水彩画の描き方
[…] 中之島一帯 […]
[…] さて今回何故、このグラバー邸を取り上げようと思ったかというと、理由は二つある。 一つはこの建物の設計者が貴重な存在だからだ。私がよくスケッチする洋風の近代建築の設計者は大抵が海外の建築家(例えばジョサイア・コンドル)が設計したものか、彼らの弟子の日本人建築家(例えば辰野金吾、伊東忠太→)が設計したものだ。 このグラバー邸はそのどちらでもない。時代は彼らが活躍した明治よりも古い江戸時代、1863年に建てられた。だから、当然建築家などはまだおらず、建て主の貿易商トーマス・グラバーにも建築家としての素養は無かったようであるから、実質的な設計をしたのは当時の大工の棟梁だったのだ。 日本人の住宅しか知らなかった彼らが、当時の西洋人の日常生活の代名詞であるバルコニー、ガラス、暖炉と煙突などを設計し、この地に建設した。驚きだ。 この建物、2013年に「グラバー邸150周年」を迎えたという。私がスケッチをした当時、実はそこまでこの建物に価値があることを知らなかった。だが少なくとも「絵になる建物だ」と思わせてくれたことは事実である。 […]